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ひとつ前へ WWWルートへ 記述責任者:mad@mail.wind.ne.jp 稗田山の崩壊・浦川 株式会社 数理設計研究所 2003/07/08-2005/06/11 |
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| 1911/08/08(明治44年)に起きた大規模な崩壊。20世紀の日本では最大級(およそ1億立方メートルの崩壊)と言われています。本ページは、専門家や地元以外では忘れ去られようとしている大規模災害を研究し後世に残すための記録を蓄積します。 | |
| 原本 | 文書化 |
| 「来間変遷三十八年史」 松本宗順 昭和23年1月記 pdf(4.9M) | kuruma38.htm |
| hiedaB5.pdf 原始資料@小谷村図書館 pdf(3.5M) | hiedaB5.htm |
| hiedaA4.pdf 地図、新聞記事など pdf (6.7M) | - |
| album00001 2003/07/03 現場撮影 | - |
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| 国土地理院 白馬周辺より部分地図(5537162,5537164,5537171,5537173) を引用して地形特徴を着色 |
参考:「斜面災害の予知と防災」 国立防災科学技術センター 白亜書房
P12 稗田山
1911年8月8日深夜、稗田山で大音響とともに大規模な崩壊が発生した。その押し出しは浦川を一気に流下し、途中右岸側の石坂部落の一部を押し流し姫川を堰きとめた。このため姫川上流4kmにあった下里瀬(くだりせ)部落付近まで床下、床上浸水し長瀬湖と呼ばれる一時的な湖が出現した。押し出しの一部は姫川の合流点上流、松が峯を乗り越えた。崩壊の翌年現地を踏査した横山又次郎(1912)は次のように伝えている。
「昨年八月八日は天気良好、且旧盆に当たりしを以って付近の村民は多く深夜に至て寝に就き、疲労のあまり前後も知らず熟睡中、翌九日午前二時と三時との間と思しき頃、異様の大音響とともに、・・・・石坂部落の家屋4棟をその家人とともに埋没し、・・・・」
この押し出しは石坂部落で死者17名、その他の部落で6名、住宅全壊4戸、浸水47戸。3日後の8月11日に浸水にみまわれた北城、南小谷村民は土木吏員・警官立会いのもと天然ダムを掘削して通水を始めた。ところが12日には水勢が強くなり、北小谷の来馬部落が一面川の瀬となって村役場、学校、郵便局の他住宅18戸、水田34町歩、畑15町歩が流出した。
町田(1964)は崩壊の堆積物の体積を1.50×10^8m^3と概算した。この地区の1/50000地形図は、1911年崩壊時にはまだ図化されていなかったので正確な崩壊源の位置を決め難い。著者は比高300m、奥行200m、体積0.84×10^8m^3と推定している。
崩壊地の地質は輝石安山岩質の溶岩と凝灰岩からなる互層で、層理面と節理が発達している。崩壊当日は晴天で地震もなかった。しかし8月4日(建設省ほか、1983)5日に155.9mmの降水が松本測候所で記録されている。しかし、崩壊発生に関する決定的誘因は未だ明らかでない。
「稗田山の大崩落」より民話の採録
小谷は地すべりの多い村である。戦後戸土(とど)部落が一戸だけを残して他は全部離村してしまったのは、うち続く地すべりに堪えかねたからである。横川もまた地すべりのため全壊した。徳川時代の地図にハッキリと載っている村で今はその跡さえ留めない村も多い。
しかし明治・大正・昭和を通しての最大の地すべりは稗田山の崩落である。稗田山とは白馬岳の東北約10キロにある海抜1,428メートルのほとんど無名の山である。
信越国境は大蓮華(白馬岳)から北東に走り、先づ小蓮華そして白馬大池のある乗鞍へ(2437)とつづく。その乗鞍岳の頂上に立って展望すれば北東約5キロに風吹岳(1904)横前倉岳(1904)などが連なり、また東方にはこれまた5キロのところに赤倉岳(1628)が指呼できる。稗田山はこの赤倉岳の東南1.5キロほどのところ、乗鞍からは6キロ東の地点になる。
この稗田山の裾を流れているのが浦川。乗鞍岳の中腹に源を発して赤倉岳の北麓を通り、稗田山の裾を洗ってからは方向を北東にとり、ほぼ一直線に進み石坂部落の下を流れて松ヶ峯につきあたり、そこで右折して長瀬で姫川にほとんど直角に合流する。
この浦川は凄い荒れ川である。上流は軟弱な火山砕屑物の地盤のせいもあって、終えず河岸河床を侵蝕しては運搬している。水流の急な個所はますます深い渓谷となり、水流がゆるやかになれば河床は昇起して川巾はただ徒らに広くなる。そのため水路は絶えず変わり、流れは澄む時がなく魚も住めないほどである。
稗田山が大崩落を起こしてこの浦川沿いに流れ下ったのは明治44年8月8日の未明である。
突如、実に突如、なんの前ぶれもなく稗田山の北側海河原、橡平(トチダイラ)坂平(イタビラ)にかけての通称サトンポ地籍が楕円形に、長さ約8キロ、高さは河床から約300メートルの所までほぼ1キロの厚さがすべり落ちた。この土の量はどの位になるか、莫大な量の土が大音響と共に浦川の渓谷に落ちこみ、浦川を一瞬に埋め尽して谷を変じて平原となし、稗田山はその北半分を失って全くその原形を留めぬほどになってしまった。
さらにこの新平原は、大音響をあげながら下流に移動した。ありとあらゆるもの−−大木も美林と田も畑も建物も、はては人命も財宝も、すべてをあまさず抜きとり吹きとぱしてしまった。
姫川本流まで押し寄せた大量の土砂は、外沢下の大岩壁に激突するとやむなく左右に分れて伸びることおよそ2キロ、 65メートルの高さで河床に堆積した。ここでせき止められた姫川は次第に一大湖沼を形作り、2キロ上流の小谷温泉へいくための川尻地籍の橋を浮き上らせ、その上流の池原下の全戸を呑み、さらにたたえて下り瀬に及び下り瀬48戸の内43戸まで浸水した。その水深は3メートルを超え、ほとんどの家は2階まで浸水した。この堆水の長さは約5キロ、県道はもちろん両岸の耕作地はすべて水中に没した。当時この出現湖を長瀬湖といった。
そのままにしておけば堪水はさらに上流に及ぶことから、急いで11日に南小谷北城の人たちが山の小径を越えたり、長瀬湖を筏で下ったりして漸くせき止めの現場に到着し、警察や土木役人の指揮の下におよそ15メートルにわたって一条の水路を開いたのである。そのため湖の水位は翌12日には10メートル低くなり、瀬がようやく水面に表われだした。
しかし、この排水路から流れだした水は、押し出された土砂に妨げられて旧の河身に入ることができず、沿岸の土砂を伴って東岸の穴平部落の脚下を洗ったため、こんどは穴平区が危険となり、住民はいづれも山の上へ避難しなければならなかった。さらに惨害はその下流の来馬(くるま)にまで及んだ。来馬は県道に沿い村役場・学校・郵便局・駐在所などがある北小谷村の中心部落である。穴平下に流れだした水は、ここで左転して一直線に来馬の中心を衝くことがハッキリ予想されたので、役場・郵便局・駐在所をはじめ、民家17戸は開水に先だってことごとく山腹に避難させられたのである。
予想は適中した。開水と同時に本流は来馬に殺到し村役場をはじめ公共施設の全部を呑み、民家も押し潰してしまった。
来馬は、小谷の穀倉地帯で、30ヘクタールの水田がひろがり、のどかな田園風景を作っていたが、そのすべては一瞬のうちに累々たる河原と化してしまった。
この災害、人を呑むこと23人、家をこわすこと27戸、約10キロにわたって全く地貌を変革してしまった。
後になって思えば前の年の10月から12月にかけて大鳴動が引き続いて起り、石坂では炉辺に遊んでいた幼児が驚いて炉に転落したこともあったといわれるが、この大鳴動と稗田山の崩落とを結びつけて予想し得た人はいなかったのである。
第二回の崩落は翌45年の4月23日である。
この時はさとんぼの残存物が押し出され、来馬では5戸埋没した。 5月4日には金山地籍の残存物が土砂などと押し出し、第3回目の災害を起している。
60年後の現在、なお上流に大平原を作った火山岩屑の角ばった礫まじりの土砂は、雨の降るたびに押し出して姫川の河巾をますます拡げ、来馬河原のごときは巾600メートルをこえてしまった所もある。そのため来馬には水に追われて3回も住居を移した人もあるし、穴平は山頂に避難してしまった。
end