1976年8月14日、沢登りを目的として黒部渓谷上流部へ向かった。
 その日は黒部湖畔にある平ノ小屋まで行く予定だった。
 黒部第四ダムに着いたのは昼頃。そこからダム湖の西岸に沿った道を上流に向かって歩く。
 この日の天気は雨模様で時に激しく降るが、ダム湖の上に霧は巻いていない。雲底は低いものの少しは見通しも利き、水面の向こうには、これから歩いて行く行程も見える。しかし、雨足が強くなると豪雨は滝のようだ。
 今日の目的地である平ノ小屋に行くには、その手前で中ノ谷を渡らねばならない。中ノ谷の沢はザラ峠(2348m)の下を源として発し、東に伸びて五色ケ原の水を集め、黒部湖(1430m)に流れ込む。湖畔の道が中ノ谷に出会う所から谷の上流奥を見上げると、河床の傾斜は急で幅は狭く両岸は急斜面。登山道から見る谷の対岸(右岸)も崖のような急斜面で、少し上流側にはガレ場がある。谷のダム湖に近い辺りは土砂が堆積して河原になり、かなり開けている。沢水は河原の一部を流れているだけで、流れから離れた辺りには人の手足ほどの太さの木々も生えている。
 登山道は中ノ谷の河原を横切るが、沢水の流れる所には橋がある。丸太数本を太い針金で縛って渡した簡易橋なので、雨で増水して濁った流れは橋まで届いている。
 雨は時に強烈に降り続いている。

 橋の手前で渡るのを躊躇しているうちに、さらに増水してきた。そして簡易橋は流れの下に沈んだ。もう橋を渡れない、足止めされたことになる。谷の対岸にも同様に足止めされた登山者が見える。我々と逆方向のダムサイト方面に行く人たちだ。
 少し上流の中ノ谷右岸、こちらからは沢の向うの対岸急斜面には漏斗を縦に割ったような形のガレ場がある。そのガレ場は、上の方は開いているが下の方は狭くなる。そしてガレ場の中ほど、ガレ場が漏斗のようにくびれる地点の上方右側には巨岩がある。その岩は見るからに不安定な形でガレ場の縁近くに座っている。大きさはマイクロバスほどもあったように思える。
 見ているうちに、そのガレ場に座っていた巨岩が動き出した。
 巨岩が落ちる方向によっては谷の対岸にいる人を巻き込みかねない。こちら側で足止めされた人たちは対岸に向かって叫ぶ「危ない!逃げろ!」沢音と雨に邪魔されて声が通らない。
 巨岩は滑り落ちた。そしてガレ場が漏斗状にくびれた所で一旦は留まる。漏斗状のガレ場は下の口を巨岩に塞がれたが、水は土砂と岩石を詰まった漏斗に流し込む。岩石は巨岩の上に溜まる。
 巨岩は再び動く。ガレ場を流れ下る泥水に足元を崩されたのだ。
 巨岩が走った。溜まっていた土砂が、ガレ場から中ノ谷本流に落ち込む。
 岩石と土砂は沢の濁流と合わさり土石流となって沢筋を流れ下って来た。沢が盛り上がる。
 土石流には石も岩も浮かぶ。浮かんだ岩と岩が衝突して「ガン、ゴン」と音を立てながら目の前を通って行く。
 岩石と土砂を含む土石流は破壊力が大きい。今までの流れの筋を無視して突き進む。流れの中に見え隠れしていた簡易橋は跡形も無くなる。河原に生えた立木も根こそぎ飲み込む。土石流に巻き込まれた木は岩石に当たり散らされて枝や根を失い、たちまちのうちに皮をむかれて丸裸になり流されて行く。
 黒部湖は深い。土石流はダム湖の底に沈み込む。土石流が流れ込んだ湖水面は、沢の口こそ泥で濁るものの、沖を見れば青い水を湛えている。その向こうの対岸には後立山連山に続く尾根が霞んでいる。いつのまにか雨は止んでいた。

2000/02.14
KUROSAKI, Yosihiro