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当時、学芸学部自治会の副執行委員長であった私のメモである。
| 現在、群馬大学教育学部は前橋市北方、利根川そばの荒牧町にある。1969年までは現在の群馬県民会館の所にあった。今でもかなりの樹木が残っていて当時をしのばせる。県立図書館のところには本館、県民会館の付近には物理や教養課程があった。 1968年はベトナム戦争たけなわのときであり、多くの学生はTVで報道される悲惨そのもののニュースを見ていた。群馬大学でも「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)、新左翼の中核派、社青同、社学同がそれなりに活動し、これらとは対極の立場にあるものとして民主青年同盟と拮抗状態にあった。 |
民青はもっぱら学内の諸要求運動という形で運動を進め、その時点で学生の根源的な欲求である戦争反対にしんねいに対応していないと思われていた。「トイレを充実しろ」といった要求運動と同等に並べられるベトナム戦争ではどうも具合が悪い。そんな学生の意識が半民青という形で集まったのだろう。民青は諸要求運動の仲間として教授を含む広範な戦線と言っていた。 戦後20年以上たち1968年ごろには全国的に大学の改築、移転が進みつつあった。群馬大学の教育学部も1970年に移転することになっていた。ちなみに教育学部にある自治会は昔の名のとおり学芸学部自治会となのっていた。 |
許可制であった教室使用やもろもろの不利益もあり民青と共同歩調の要求運動として移転闘争が始まった。 学生は教授たちと学生の本分、学問のあり方、産学共同など多方面に渡る意見を交換した。味方になってくれる教授も少なくない時期。 |
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1968〜1969年にかけて 沖縄の滑走路で爆弾を積んだB52の爆発、九州大学の電子計算センターに墜落したファントムなどの事件が続き、否応無しにベトナム戦争に深くかかわる日本の姿が見えてきた。次第に共産党系の民青と反民青の立場も明快になり学生は2つに分裂していった。 |
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1969年1月28〜29日 群馬大学学芸学部学生自治会は徹夜の学生大会をした。途中で教授の指導による4年生の駆り出しなども乗り越え決議によりストライキに入った。 |
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左に見えるのが本館で今の県立図書館の位置。右に見えるのが図書館で県民会館のまえ付近。看板と図書館の間にある樹木は今でも県民会館の前にある。 |
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前橋公園で移転闘争そのものに反対する学生だけを集めて学生大会を開くというので乗り込んで粉砕。小競り合いはあったが殴り合いというほどではなかった。 |
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