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表現の構造

(C)数理設計研究所 玉置晴朗 2001/3/10, 2001/01/08 (論考途中ですが公開)

 これを書く理由

 小説や論文の書きかたの本はある。伝えるという点では小説も論文も変わりが無いだろう。この小論では「情報を伝える」ことを分析して、伝えるのに必要な表現の構造を研究する。

知識と表現の構造

 知識には構造がある。ある事を知り理解する作業は眼前にある現象を究極的には生物的な感覚に結びつけるものだ。別の観点から見れば知識はネットとも言えるがネットは単なる連接構造なのでネットと言うよりも構造と表現したほうがいいだろう。人それぞれだが、一番手軽に観察できる私の知識に例を取ってみる。

知識構造の事例 フロッピーディスクの取り扱い

 清潔に取り扱わなければいけないことは誰でもが知っている。多くの人はこの知識を他人や文書からもらい、体験で確認する。以下に私の知ることを書き出してみた  これを読んでみると、私の「取り扱い」という意味は、一般の方の感じとかなり違う。PCの設計やBIOSの製作にかかわったことが大きく影響している。ともあれ取り扱いに関して重要な清潔さに関して基礎となる知識は太字で示した。しかし、この言葉で終わるわけではない。ちょっと説明がいる  この辺まで来るとだいたいわかるかな・・・・

意味を伝える

 あなたはWEB上にあるこの文章を読んでいる。この文は記述している時点で持つ私を未来の私に考えの筋道が見えるように残そうとしているのだ。意味はどのように伝わるのだろうか?。そこで、意味はこっちからあっちへ持ち運べるものなのかが解き明かされねばならない。ここに意味を伝えるという作業の最大の勘所がある。
 結論を先に言えば、残念ながら私の所からあなたの所へ「意味」は持って行けない。私の目の前にある千円札があなたのところへ行けないのと同じだ。しかし、伝達の仕方を工夫すれば千円札ではなく千円をあなたに送ることはできる。郵便局や銀行に行って、情報コードになおし、送り、あなたの側で千円の貨幣価値を再生すればいいのだから。
 持ち運べるのは実体のあるものであり、「意味」には実体が無いので持ち運べない。そこで意味を送ろうとする人間は同じ作業をする。会話で意思を伝えるのなら、意志を日本語で記述して音波に変換して送り出す。糸電話でもいいし直接にでもかまわないが、相手は耳で音波から日本語をひねりだし、解析して意味が伝わる。と思うならば浅はか。実はその解析された日本語があなたの動物としての経験と照らし合わされて、ある表象とマッチすることによって本当に伝達が完成する。この最後の部分が理解されていないと、意味を伝えることができない。
 つまり、「意味」は究極的に理解者の世界観で翻訳されてはじめて「意味」になるのだ。

中途半端な書きかた教室

 「自分の思うことをそのまま書きなさい」、小学校で先生に言われて困惑したのではなかろうか。
 「だって、どう書くの?」、これは重大な問題なのだ。誰に向って書くのか想定されていない文章の作成指示ほど間抜けなものは無い。伝達するという意味は無に対してではなく何か実体のある相手に伝えることなのだ。相手は機械でも人間でも動物でも良い。しかし抽象対象(数式や文そのもの)に意思を伝えることはできない。意味を伝えるための媒介そのものに意味を伝えることはできないのだ。
 コンピュータに意志が伝えられるか?、疑問に思うだろう。私はできると考える。私の意思をコード化しコンパイルし実行させれば、私の意思がそれなりに具象化する。私が他人にああいえば、そいつは悩んで頭痛になる。コンピュータは内部にくみこまれた知識に照らして私のコードを解釈し電子の流れをスィッチする。バグだらけのプログラムで私の意志が通じないことも多いが・・・。
 ともあれ、意思を伝えるという雰囲気はわかるだろう。機械や言語を想定してプログラムするのと同じように、相手を想定して文章を書くのが大前提なのだ。
 たとえばTR技術に文章を書くのなら、相手は日本人の初級技術者、高校卒業程度の学力を想定して電子技術に興味のある者。つまり常用日本語+若干の電子関係専門用語を使って書く事になる。 

わかった!

 さて、人を含む事物を相手にして始めて表現が成り立つことがわかった。かならず想定された相手があり、その相手が「わかった!」と感じるようにするにはどうすれば良いのだろう。そこが意味を伝える上での肝心な部分だ。文学的な美しさも実はここにあるのだが、まず美しさは後に置いておこう。
 表現は相手の基礎認識を利用して組み立てられる。意味の発信者は、情報を伝送し相手の世界観、体験、生物存在を利用する。情報は触媒として与えられると考えてもよい。意味、認識を組み立てるのはあくまでも相手の作業なのだ。
 意味の送信者は手前勝手に言いたい事を言うだけでは意味が通じない事が多いのはこういう事実から来ている。「わかった」と言わせるためには相手の資源をこちらからの情報で構造化する必要があるのだ。

構造化した情報

 認識は上部から作ることができず、必ず基礎となる部分から組み立てられなければならない。家は屋根から作ることができないのだ。画像とは異なり文章や音声による情報伝達は逐次型である。画像が優れていると誤解してはいけない。
 絵は全体像を提示してから細部構造に着目させる。ストーリーのある映画は、すでにストーリーで思考を束縛しているので着目点が連続して動くような作成法もある。
 画像はたいていの場合意味を直接的には感知させる仕組みを持っていない。動画では時間的経過を持つことでいったん取得した着目点を追跡することができるので、ある意味では逐次型である。
 画は感情を伝送するのには非常に良いが論理構造は見せるだけでは駄目で、何がしかの方法で着目点を提供し、それについて観察者が自ら構築したものでなければ論理にはならない。画は余計情報が多く雑音が多いので、情報伝送効率としては文章の逐次性がある情報の方が優れているようだ。
 構造化した情報を提示するとしても、始めから家を押しつけたら家に押しつぶされてしまう。この材木をこのように組み立ててクギで止める。その手続きの全体を経験し眺め渡すことによって家の全体構造が理解されるようにだ。

かなり散漫な文章だな・・・・・・

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