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記述責任者:mad@mail.wind.ne.jp 文章の書き方 と 研究の方法 の 研究 |
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この記述は、卑近には当研究所が実施する研究、実験準備、報告などの完成度があまりに低いので、口頭で示唆した事項をまとめたものから発している。だいぶ以前からの動機を振り返れば、人はどのように知識を集めて自己内部に再構成するかにも大きな興味を持っていたし、人工知能なるものに幻惑していた時代もあった。そうだ、考えてみれば「文章や研究」ってのは「知能」のそのものではないか。これを研究すること自体がおもしろい。したがって、単なるきままなメモであったものを再整理して研究課題にすることにした。
| 2006/01/07 そもそも研究という行為の定義を「知的な探検」などとしていたら研究行為の分析もできない。知的な探検と言うものは「非知的な探検」と言い換えてもわかるように、知的であるかどうかで探検と言う行為を修飾しているにすぎない。研究は探検とは別のものであるならば、この言は何の比喩にも定義にもなっていない。そこで研究行為の定義を与えてみよう。 行為の観察から定義を与えてみると、研究とは実際のところ先人から教わった知を自らの行為と解釈で発展させ新しい理解を生み、それを先人として後に続く者に伝えていく行為だろう。したがって研究者とは、その先人から後に続くものに知的な付加価値を与える者のことであり、研究とはその行為のことだと言える。絶対に雇用者から「研究者」の役職をいただいた者のことではないのだ。 研究者は先人からどのように知を受け継ぐかと言えば、他者から音声言語で受け取る部分もゼロではないが、殆どの部分は自然言語や数学で記述された文書で学習する。 そして研究者は、動物としての感覚、そのすむ社会特有の社会性、世代や民族、宗教、信念などの世界観を持ち、周囲に存在する事物の理解に勤めた行為や結果を文書として次の世代に与えていく。 かように、時々中断しながらも続く作業が2300年前から続き現代の数学になっている。400年ぐらい前からの作業が物理学になっている。研究は必ず入口と出口で文書を介して通じていることがおわかりだろうか? |
「行為の観察」として見るのは外部から観察するってことだ。さらに踏み込んで自己の内部に存在する他者、これを仮定することで客観性といったマボロシが可能になる。まあそれは簡単には言い切れるものではないが、自己が観察する自己の研究作業を見てみよう。 |
始めに、すでに言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。この方は始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によってできた。できたものでこの方によらずにできたものは、ただの一つも無い。
何らかの具体的な課題を頭におかずに方法を探す人は、たいてい失敗の憂き目に会う
学術的研究と技術的研究の間には越えがたい違いがあるように感じていた。最近、やっと理解したので書いてみる。学術的研究者の多くは、それがどのように理解できるかに重きを置く。一方、技術的研究者はそれがどのように実現できるかに重きを置く。これは世間でよく言われることで別に目新しい理解ではない。
しかし、この2類型は従来から言われていた理論と実験の関係と似てはいるが少し違う。たとえば理論物理学も実験物理学も、ものごとを理解する方向で進める。だから知識能力の増大で世界を広げるか、実体化した能力の増大で世界を広げるのかの違いに見える。
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