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(C)数理設計研究所 玉置晴朗 自由コピー、改変、再利用などの許可をします
[1]:「ある情報将校の記録」 塚本誠、中公文庫
[2]:「若き将軍の朝鮮戦争」 白善Y 草思社
[3]:「第二次世界大戦」上下 マーティン・ギルバート 心交社
[4]:「零戦特攻」 角田和男 朝日ソノラマ (戦前から戦後までの体験記録)
[5]:「真珠湾は眠っていたか 1 運命の序曲」 ゴードン・W・プランゲ 講談社
[6]:「オレンジ計画」 エドワード・ミラー 翻訳 浜田博 新潮社
[7]:「ドゥーリトル日本初空襲」 吉田一彦 徳間文庫
[8]:「海軍と日本」 池田清 中公新書
[9]:「アメリア・イヤハート 最後の飛行」 ランドール・ブリンク 新潮文庫
[10]:「真珠湾作戦回顧録」 源田實 文春文庫
[11]:「証言・ミッドウェー海戦」 橋本敏男ほか 光人社
[12]:「日本海軍が敗れた日」上下 奥宮正武 PHP文庫
[13]:「不吉な黄昏・シンガポール陥落の記録」 ノエル・バーバー 中公文庫
[14]:「ローレンスとオッペンハイマー」 N・ファール・デイビス TIMELIFE
[15]:「暗号名イントレピッド」 W・スティーブンスン ハヤカワ文庫
[16]:「日本の歴史14 二つの大戦」 江口圭一 小学館
[17]:「群馬の20世紀」 監修 関口正巳 あかぎ出版
[18]:「ヒトラーの戦場」 柘植久慶 集英社文庫
[19]:「戦略 東京大空爆 1945年3月10日の真実」 E・バートレト・カー 技報堂
[20]:アジア歴史資料センター
[21]:「ルーズベルト秘録」 産経新聞社 扶桑社文庫
[22]:「未知の剣」 渡辺洋二 文春文庫
- 合計 軍人、軍属 民間 - 中国 3500 中国外務省が中国の戦争映画「柴日」に提供した数字(2001年)
朝日新聞夕刊、海外文化より2001/12/28日本 310 230 80 三省堂1991「戦後史大辞典」 フィリピン 110 三省堂1991「戦後史大辞典」 インドシナ 210 三省堂1991「戦後史大辞典」 インドネシア 200 三省堂1991「戦後史大辞典」 ソ連 2000 三省堂1991「戦後史大辞典」 ポーランド 600 三省堂1991「戦後史大辞典」 米国ヨーロッパ 20 三省堂1991「戦後史大辞典」 米国太平洋 10 三省堂1991「戦後史大辞典」 イギリス連邦 60 三省堂1991「戦後史大辞典」 ドイツ 450 350 100 民間人の半数はナチの虐殺
1904/02/23[2]日韓議定書
1905/02/18[2]新協約正文
1910/08/22[2]韓国併合条約日本語正文
| 明治45 | 1912/〜7/30 |
| 大正 1 | 1912/7/30〜 |
1920/??/??[16]総選挙後、海軍懸案の八八艦隊の完成計画案が通過 、1917年度予算の49%を軍事費が占めることとなった
1921/07/11[16]アメリカ大統領(共和党ハーディング)の提案により日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリカをメンバーとしてワシントンで軍備制限と極東問題の会議を非公式に提案
1921/07/11[16]アメリカ大統領がワシントン会議の正式招請をする
1921/11/12[16]ワシントン会議開催、日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリカを主メンバー5カ国として、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国でソ連と中国の広東政権は招請されなかった
1921/11/12[16]ワシントン会議冒頭で、アメリカ全権ヒューズ国務兆貫が主力艦のトン数を米5:英5:日3としたいと提案し、最終的には合意された
1921/12/13[16]四国条約(太平洋における島や領地の権利尊重、米、英、仏、日)締結、日英同盟は消滅、中国の尊重を歌った9カ国条約も結ばれた
1922/02/06[16]ワシントン会議閉幕、軍縮条約、9カ国条約が署名、調印され、以後ワシントン体制というアジアの国際秩序となった
1923/09/01[16]関東大震災
1923/11/08[18]ヒトラーのミュンヘン一揆
1924/12/19[18]バイエルン州最高裁ヒトラーを釈放
1925/04/00[18ワイマル共和国の大統領にヒンデンブルク元帥がなる
1925/07/18[18]「我が闘争」出版、ヒトラー
| 大正15 | 1926/〜12/25 |
| 昭和 1 | 1926/12/25〜 |
1928/05/20[18]ナチスは総選挙で12の議席を得る
1929/10/24[18]暗黒の木曜日、ウォール街で株の大暴落
1930/09/00[18]ナチスは総選挙で109の議席を得る
1930/10/27[16]台湾の高山(高砂)族300が日本人の運動会を襲撃、136人を殺害
1931/07/??[16]万宝山事件、朝鮮人と中国人の用水路トラブルから日中の武力衝突、中国人100死亡
1931/09/19[16]柳条湖事件
1931/09/21[16]閣議で「満州事変」と決定、中国と事実上の戦争が始まった
1931/10/08[16]日本は張学良が政府を置く錦州を爆撃
1931/12/13[16]犬養を首相とする政友党内閣が発足
1932/01/18[16]第1次上海事変、上海で日本人僧侶5が中国人に殺された(日本軍の策謀による)
1932/01/28[16]第1次上海事変、上海で日中両軍が市街戦に突入
1932/02/05[16]第1次上海事変、日本は上海に第9師団を投入
1932/02/05[16]関東軍がハルビンを占領
1932/02/24[16]第1次上海事変、日本は上海に第11、14師団からなる上海派遣軍を投入
1932/03/01[16]第1次上海事変、日本はようやく戦闘終結を声明
1932/03/01[16]関東軍が満州建国を宣言
1932/03/頃[16]大阪の主婦によって「国防婦人会」発足
1932/09/15[16]日満議定書調印の日に満鉄の経営する撫順炭坑が遼寧民衆自衛軍に襲われる
1932/09/16[16]日本軍は平頂山の全住民(中国発表3000人と全部落の壊滅)を虐殺
1932/10/02[16]リットン調査団報告の公表
1932/11/06[18]ナチスは総選挙で196の議席を得る
1932/12/02[18]ヒンデンブルク大統領はクルト・フォン・シュライハー(国防省)を大統領に任命
1933/01/30[3]ヒトラー政権樹立
1933/02/24[16]リットン調査団報告にもとづき国際連盟が勧告案を議決
1933/02/24[18]ナチス、共産党本部を襲撃、多数の逮捕者
1933/02/27[16]日本は国際連盟を脱退
1933/02/27[18]ドイツ国会に放火、ナチスは共産党の反撃と宣伝
1933/05/25[16]中国は日本に停戦を申し入れる
1933/05/31[16]中日の停戦協定が調印され、2年後に通告が発効する
1933/07/20[18]ナチスはバチカンと協定を結ぶ
1933/10/14[18]ナチスは国際連盟を脱退
1934/06/30[18]ヒトラーは突撃隊、レームを粛清する
1935/03/頃[16]ファシスト・ドイツがラインラント占領
1935/05/頃[16]ファシスト・イタリアがエチオピア侵攻、併合
1935/07/頃[16]スペイン内戦が始まる
1935/10/頃[16]独、伊はローマ・ベルリン枢軸を形成
1936/01/20[18]イギリス国王ジョージ5世が崩御、エドワード6世即位
1936/03/06[18]ドイツ、ラインラント奪回、再武装
1936/07/頃[16]満州事変開始以来の死者は7月末までに日本軍3928、33年9月以来では1362
1936/08/01[18]ベルリン・オリンピック
1935/01/頃[16]伊は日独防共協定に加わる
1937/07/07[16]ロコウキョウ事件
1937/07/10[16]日本陸軍中央は関東軍2個師団、朝鮮軍1個師団、内地軍3個師団の派遣を決定、北支事変となる
1937/08/13[16]第2次上海事変
1937/08/14[16]日本の閣議で国民的思想動員運動を起こすことをきめる
1937/08/21[16]ソ連と中国が中ソ不可侵条約を結び、広東ルートを通じて中国への軍事援助を開始する
1937/09/02[16]日本政府は「第2次上海事変」を「支那事変」と改称
1937/09/11[16]東京の日比谷公会堂で「国民精神総動員大演説会」
1937/09/12[16]「国民精神総動員中央連盟」が発足、社会大衆党は全面協力
1937/11/07[16]上海付近の作戦が第10軍に下命
1937/12/13[16]南京城陥落
1937/12/14[16]南京城陥落を祝して東京市で提灯行列
1938/01/11[16]日露戦争以来、始めての御前会議にて「支那事変処理根本方針」を策定
1938/02/16[16]御前会議は不拡大方針をきめた
1938/03/頃[16]日本、綿糸配給統制規則
1938/03/頃[16]日本、揮発油、重油販売取締規則
1938/07/頃[16]日本、物品販売価格取締規則、指定物品について公定価格が定められた
1938/07/頃[16]ソ連、満州、朝鮮国境の張鼓峰で紛争
1938/07/30[16]日本の第19師団が独断でソ連軍を攻撃
1938/08/10[16]モスクワで停戦協定が成立、11日停戦、張鼓峰
1938/08/22[16]「武漢作戦」開始
1938/11/03[16]近衛文麿内閣は「征戦究極の目的」は「東亜新秩序」の建設にあると声明
1939/02/頃[16]日本は海南東を占領
1939/03/頃[16]日本はスプラトリー(南沙)群島の領有を宣言
1939/05/11[16]ノモンハンで武力衝突開始
1939/05/28[16]ノモンハンでソ連軍が攻勢に出る
1939/05/31[16]ノモンハンで日本軍が全滅状態
1939/06/14[16]日本は華北の天津にある英仏租界を封鎖
1939/06/27[16]日本はソ連の後方基地ノムスクを空爆
1939/06/頃[16]日本、パーマ禁止
1939/07/02[16]日本はソ連に対し地上攻撃を開始
1939/07/26[16]アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告、6ヶ月後(1940年1月)に失効
1939/07/頃[16]日本、国民徴用令が制定された
1939/08/20[16]ソ連は大兵力を集中して日本軍への総攻撃を開始
1939/08/22[15]ポーランドからエニグマのひとつの型(ハイドリヒ=エニグマ)がイギリスに届けられる
1939/08/23[16]独ソ不可侵条約が調印
1939/08/24[16]イギリス=ポーランド条約調印
1939/08/25[15]イギリス=ポーランド条約調印
1939/08/31[3]ゲシュタポは収容所の囚人にポーランド軍の制服を着せ(射殺し)地元放送局の襲撃事件をでっち上げた
1939/08/31[3]ジューコフ将軍の指揮するソ連軍はノモンハンで日本軍第6軍の最後の抵抗を粉砕
1939/08/31[16]ソ連は日本軍を壊滅させた
1939/09/01[3]●第二次世界大戦の開始
1939/09/01[16]興亜奉公日が制定され、毎月1日を神社参拝、一汁一菜、禁酒禁煙、勤労奉仕を義務付けた
1939/09/01[3]ポーランド軍の正規兵がグラビッツ送信所を襲撃したとしてドイツ軍のポーランド侵攻が始まる
1939/09/11[15]チャーチルとルーズベルトの間で秘密の海軍関係者同士として手紙交換が始まる
1939/09/15[16]日ソはモスクワで停戦協定が成立、日本は6月以降の戦死10736、平均損耗率28.7%に達した
1939/09/17[16]ソ連がポーランドに侵入
1939/09/28[16]ポーランドはドイツとソ連の秘密協定により分割された
1940/01/14[1]阿部内閣は陸海軍の支持を失って総辞職
1940/01/16[1]米内内閣成立
1940/02/02[1]民生党の斎藤隆夫、衆議院で戦争政策を批判して問題になる
1940/02/頃[16]日本、衣料切符
1940/03/07[1]衆議院は斎藤隆夫の除名を可決し、反対した社会大衆党の片山哲らも除名
1940/03/09[1]衆議院は聖戦貫徹決議を可決
1940/03/25[1]各派議員百余名は聖戦貫徹議員連盟を結成
1940/05/10[15]チャーチルが首相になる
1940/02/頃[16]日本、米の通帳販売、1日2.3合、330グラム)
1940/06/12[1]友好関係存続と領土相互尊重に関する日本・タイ間条約調印
1940/06/24[1]日本政府、ビルマルートおよび香港経由の援蒋物資の停止を英国に申し入れる
1940/06/24[1]近衛文麿、新体制運動推進の決意を表明
1940/07/16[1]畑陸相の単独辞職により米内内閣総辞職、政友会久原派解党
1940/07/19[15]チャーチルは特殊作戦執行部(BSC)の創設を指示
1940/07/22[1]第二次近衛内閣成立
1940/07/26[1]大東亜新秩序と国防国家の建設方針に関する基本国策要綱を閣議決定
1940/07/30[1]政友会中島派解党
1940/08/15[1]民生党の解党
1940/09/06[19]ボーイング社がXB29の開発契約を獲得、開発費は30億ドルに達した
1940/09/11[1]内務省が部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱を府県に通達
1940/09/27[1]日独伊三国同盟、ベルリンで調印
1940/10/12[1]大政翼賛会の発会式
1940/11/24[1]西園寺公、死去、国葬(12・5)
1940/11/27[1]米大使に野村吉三郎を任命
1941/03/07[3]U-47沈没、艦長ギュンター・プリ-ン他乗組員全員死亡
1941/03/07[1]国防保安法の交付
1941/03/08[3]60:31で武器貸与法が米国上院を通過、「宣誓との妥協は終わった」ルーズベルト
1941/03/09[3]アルバニアからギリシャ軍を駆逐すべくイタリア軍が攻撃開始、5日後に停止
1941/03/10[1]改正治安維持法の交付
1941/03/15[3]リューテナンス提督の戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが16隻を撃沈
1941/03/15[3]「サヴァンナ作戦」特殊作戦部(SOE)が5名(隊長:ジョルジュ・ベルジェ)のフランス兵をフランスに空輸、ヴァシヌ近郊に降下、ドイツ空軍パイロットを乗せたバスの爆破予定。バスは使われていず失敗、3週間後に帰還。
1941/03/18[3]イギリス情報部はユーゴスラビアの摂政パウル殿下がボリス国王と同じくドイツ側につきギリシャ北部国境もドイツ軍の攻撃にさらされるものと判断、イギリスの材ユーゴスラビア外交官は政府転覆計画を支援して親ドイツ政権を打倒する権限を与えられた
1941/03/20[3]パウル殿下は無い核にドイツ軍のユーゴスラビア経由(自由通行)のヒトラーの要求を呑むかを諮問、4人の閣僚は同意せず辞任
1941/03/20[3]ソ連軍参謀、情報部長ゴリコフ将軍が正確なドイツ軍の計画を記述した報告書を提出
1941/03/22[3]ハワイの日本領事、喜多総領事、永井がパールハーバの艦隊で要り情報の収集を指令された
1941/03/25[3]ユーゴスラビア首相ツベトコビッチは三国同盟参加の調印、日本のベルリン駐在大使(大島)も立ち会った
1941/03/25[3]ルイジ・ファッジオーニの指揮するイタリア魚雷艇6隻がクレタ島スダ湾に突入、イギリス巡洋艦ヨークを大破し座礁させた
1941/03/26[3]ユーゴスラビア全土で三国同盟参加調印反対のデモ
1941/03/27[3]ツベトコビッチ政権は倒され王位継承者17歳のペータル国王に替わる。ユーゴ空軍司令官ドウサン・シモビッチが新政権を作り直ちに三国同盟を脱退した
1941/03/27[3]ヒトラーは「ユーゴスラビアを武力で撃破し国家として粉砕する」決意を軍司令官に伝えた、ハンガリーの大臣には支援の代償としてユーゴのバチスカ州の割譲を提案、ブルガリアの大臣にはギリシャ領マケドニアとユーゴのマケドニア州の割譲も提案
1941/03/27[3]イギリス海峡沿岸にあるすべてのドイツ軍基地とシチリア、リビアから600機がルーマニアとブルガリアに飛来、全航空機は1000機になった
1941/03/27[3]夕刻、ヒトラーは指令第25号に署名、ユーゴスラビアとギリシャの同時攻撃、ソ連侵攻を5月から6月に延期
1941/03/頃[3]ヒトラーはクロアチア人に政治的保証を与え、ユーゴの内部緊張を助長させた
1941/03/27[3]エリトリアのイタリア軍は12日間の苦戦の末、ケレンから駆逐された
1941/03/27頃[3]「マタパン海戦」 暗号解読によりイギリス海軍はマタバン沖、クレタ南部のガウト島沖でイタリア艦隊、5隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、2400名の将兵を水没。イギリスの損失は航空機2
1941/03/27[3]米英参謀会議、ワシントン、合同基本戦争計画第1号の合意(ドイツを最初に、次にたぶん日本)
1941/03/28[3]7ヶ月間のドイツ軍の空襲によるイギリス民間人の死者は28859、重症40166、3月だけで民間人4259の死亡、599人が16歳以下
1941/03/28[3]英米の科学者がプルトニウム発見
1941/03/30[3]ヒトラーは幕僚集会でソ連侵攻の日付として6/12を示唆
1941/03/末[3]3000人を超えるポーランド人がアウシュビッツで殺されたことがポーランド亡命政府を通じて知らされた
1941/03/30[3]ロンメルがキレナイカを越えて進撃
1941/04/02[3]イラクで反英的なラシッド・アリが権力奪取、地中海へ通じる石油パイプラインを切断
1941/04/03[3]マッサワからポートスーダンへ航行中のイタリア駆逐艦5隻中4隻がイギリス軍の雷撃機に撃沈された
1941/04/08[1]企画院調査官、和田博雄ら検挙
1941/04/13[1]日ソ中立条約の調印
1941/04/16[1]ハル国務長官と野村大使との間で日米交渉が始まる
1941/06/21[3]夏至、フランス降伏から1年、129年前ナポレオンがネマン川を渡ってモスクワに向かった
1941/06/22[3]04:15ドイツ軍のソ連侵攻開始
1941/06/22[3]ハルダー将軍の手記によれば「スターリンは調停を日本に依頼し、ドイツ外務省と無線連絡を保っている」
1941/06/22[3]正午までに25%(1000機)の航空機を撃破、イタリアとルーマニアがソ連に宣戦布告
1941/06/23[3]アレクセイ・コスイギン他二名の非難委員会を設立、西部ロシア、ウクライナの兵器工場をウラル以東へ移転作業に着手
1941/06/25[3]ドイツ第47装甲軍司令レーメルセン将軍は「捕虜と住民に対する非常識な発砲」が起きていると将校に抗議
1941/06/26[3]フィンランドがソ連に宣戦布告
1941/07/02[1]御前会議で情勢の推移に伴う帝国国策要綱を決定
1941/07/16[1]第二次近衛内閣が総辞職し、松岡外相を豊田外相に代えて第三次近衛内閣が成立(7・18)
1941/07/28[1]日本軍が南部仏印進駐
1941/08/01[1]米国が対日石油輸出を停止
1941/08/07[1]豊田外相が近衛・ルーズベルト会談の提議を野村大使に訓令
1941/08/14[21]大西洋憲章の公表
1941/08/17[21]日本(野村大使)が首脳会談の開催を提案
1941/08/21[3]パリ地下鉄で22歳の共産党員ピエール・ジョルジュ(ファビアン)がドイツの仕官候補生を射殺、150名以上のフランス人が報復として射殺された
1941/08/25[3]暗号解読により大量のユダヤ人が殺害されていたことを知り、チャーチルはナチの占領地における虐殺として非難放送した
1941/08/25頃[3]暗号解読によりベルリン駐在日本大使がヒトラーと会談して「日米衝突の場合ドイツは直ちにアメリカと交戦状態に入る」と確約したことを知りルーズベルトに通報
1941/09/11[21]「米国総合生産必要物に関する陸海軍統合局予想書」完成
1941/10/04[3]アルハンゲリスク向けの第1輸送船団、重戦車20、戦闘機193が10/12着の予定
1941/10/06[3]アルハンゲリスク向けの第2輸送船団、重戦車140、戦闘機100が10/19着の予定
1941/10/09[3]ハワイ日本領事へ発せられた真珠湾調査の指示がワシントンで解読されたが何の対策も取られなかった
1941/10/12[3]ソ連軍はブリヤンスク、ヴィジヤマを放棄、ソ連第8軍が包囲され648196名が捕虜
1941/10/14[3]カリーニン陥落
1941/10/14[3]レニングラード初雪、零下になった
1941/10/15[3]25cmの積雪
1941/10/15[3]ソ連軍はオデッサからセバストポリへ撤収を開始した
1941/10/15[3]モスクワの政府と外交官にボルガ川クイビシェフへ退去準備の通告
1941/10/15[1]尾崎秀実、ゾルゲ(18日)逮捕、ゾルゲ事件。国防保安法、治安維持法、軍機保護法の違反で5名を予審請求、1:フランクフルターツァイツング日本特派員 リヒアルト・ゾルゲ、2:アヴァス通信社通信補助員 ブランコ・ド・ヴーケリッチ、3:画家 宮崎与徳、4:元満鉄嘱託 尾崎秀実、5:青写真複写機製造業 マックス・クラウゼン
1941/10/中[3]8月からこれまでに捉えられたソ連軍捕虜のうちザクセンハウゼン強制収容所だけで18000名が殺害された
1941/10/16[3]大西洋横断の輸送船団がドイツ潜水艦に襲われアメリカ駆逐艦カーネーが大破、アメリカ水兵11が死亡
1941/10/16[3]近衛内閣総辞職、東条内閣
1941/10/22[3]アルハンゲリスク向けの第3輸送船団到着、重戦車200、戦闘機200
1941/10/22[3]日本全国で防空訓練、灯火管制訓練
1941/10/24[3]ドイツ軍ウクライナのハリコフへ入る
1941/10/27[3]ルーズベルト、「ヒトラーの魚雷はすべてのアメリカ人に向けられている」と海軍記念日演説、証拠としてアルゼンチンのドイツ大使館からBSCが盗んだという地図を提示
1941/10/29[3]HX-156を護衛していたアメリカの駆逐艦ルーベン・ジェームズが魚雷攻撃で沈没115名が死亡
1941/10/30[3]ルーズベルトは無利子、終戦後5年間の返済猶予をふした10億ドルの武器貸与をスターリンに通知
1941/11/03[3]東京で機密連合艦隊命令作1号が全司令官に発令、「34日以内に真珠湾を攻撃、マレー、フィリピンなど」
1941/11/06[3]真珠湾に見たてた鹿児島湾を目指して飛行演習
1941/11/08[3]レニングラードの包囲完成
1941/11/09[3]暗号解読によりロンメル軍のためのイタリア、ドイツの2船団が地中海で全滅
1941/11/09[3]ユーゴのチェトニックがチトーと共産主義勢力を殲滅すると表明しナチ陣営に入った
1941/11/13[3]U-81ダッケンベルガー艦長がジブラルタル沖でイギリス空母アーク・ロイヤルを攻撃、翌日沈没させた
1941/11/13[3]アメリカ議会212:194で中立法を改正、アメリカ商船の武装と戦争水域の航行が可能になった
1941/11/15[3]第1次大戦のドイツ軍撃墜王エルンスト・ウーデット自殺
1941/11/18[3]オーストラリア沖でイギリスの軽巡洋艦シドニーがドイツの外洋襲撃船コモランに撃沈され645名が死亡
1941/11/20[3]ルーズベルトはチャーチルに対日交渉の悲観性を伝えた
1941/11/22[3]日本は「Z作戦」で第1航空艦隊を単冠湾に終結させた
1941/11/22[3]ドイツの通称破壊艦アトランティスがイギリス巡洋艦デボンシャーに発見され撃沈
1941/11/22[3]極東ではカナダ軍が香港へ向かっていた
1941/11/24[3]ワシントンから太平洋の全指揮官に対し「フィリピンからグアムを含むどこかへの奇襲攻撃」の通知
1941/11/24[3]ブレッチリーの暗号解読により、ドイツがアフリカへ空軍燃料を2隻で送り撃沈された
1941/11/25[3]マレーへ向かう日本軍の兵員輸送船が台湾沖で(アメリカ軍?に)目撃された
1941/11/25[21]ハル・ノート完成
1941/11/27[3]ワシントンはフィリッピンのマッカーサーに「今にも敵対行動の可能性あり」と通報
1941/11/28[3]ドイツ軍は東部戦線で初の大退却、ロストフ撤退
1941/11/29[3]ドイツ軍はタガンログ撤退
1941/11/末[3]レニングラードでは毎日400人が飢えで死んだ、11月中に11000人,爆撃で522人が死亡
(日本帝国)海軍電報 japan_navy_1207.pdf
1941/12/01[3]モスクワ攻防戦
1941/12/01[3]イギリス軍は日本の兵員輸送船が台湾から南シナ海を横断しているとしてマレーに緊急事態を布告した
1941/12/02[3]日本は第1航空艦隊に目標は真珠湾であると確定すると暗号電報を送った
1941/12/02[3]日本はハワイの日本総領事にあてて、真珠湾上空の阻塞気球、魚雷網の問い合わせを発し,ワシントンは解読した
1941/12/02[3]イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルス、駆逐艦4とともにシンガポール到着、空母インドミタブルは西インド諸島で座礁し修理に25日を必要としていた、これらは「Z艦隊」という
1941/12/03[3]ハワイの日本総領事から東京へ報告
1941/12/04[3]モスクワでは零下35度に達した
1941/12/05[3]朝の3時、猛烈な吹雪と1mの積雪の中、ソ連軍88個師団はドイツ軍67個師団を800kmの戦線で攻勢に出た
1941/12/05[3]イギリスはフィンランド,ハンガリー,ルーマニアに宣戦布告し、英連邦諸国も続いた
1941/12/06[3]ワシントンで小委員会「S-1」開催、原子爆弾の製造の可能性と実現時期などを6ヶ月以内に出すこと
1941/12/06[3]ワシントンの海軍暗号解読班ドロシー・エドガー婦人は東京からホノルルに宛てた外交暗号マジックを解読した通報を受けた解読部部長は月曜に考えることに延期した
1941/12/07[3]●太平洋戦争の開始
1941/12/07[3]ハワイ時間07:55 真珠湾攻撃、戦艦4沈没、戦艦4損傷、その他11沈没か損傷、航空機188,死者2330
1941/12/08[3]チャーチルは日本に宣戦布告
1941/12/08[13]01:15シンガポール総督サー・シェントン・トマスは電話でマラヤ軍総司令官A・E・パーシバル中将から連絡を受け、日本軍がタイ国境に近いコタバルに上陸を始めたと通知された
1941/12/10[3]イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルス、撃沈
1941/12/11[3]ドイツがアメリカに戦線を布告
1941/12/11[3]ウェーク島占領の為にきた日本軍艦隊は駆逐艦疾風(はやて)、如月(きさらぎ)を失い5350死亡
1941/12/27[3]イギリスはコマンド部隊による「アーチェリー作戦」でノルウェー西部のドイツ海軍基地を襲撃、商船5、16000トンを沈めた
1942/01/01[3]国際連合声明、調印26カ国「生命,自由,独立及び宗教の自由、人間の権利と正義を保護すること」
1942/01/01[3]フランス・シャルトルの元市長ジャン・ムーラン(マックス)がパラシュートでフランスに帰国、レジスタンス支援
1942/01/01[3]日本軍がボルネオのラブアン島を攻撃
1942/01/01[3]ブレッチリーでエニグマの4つの鍵が解読される、ドイツ空軍司令部用ピンク、3航空団の虹、雀蜂、ジガ蜂
1942/01/02[3]ブレッチリーでエニグマの鍵が解読される、ベルリンから東部戦線向けの補給品情報用暗号の「凧」
1942/01/02[3]日本軍マニラ占領
1942/01/04[3]日本軍ラバウル空襲
1942/01/05[3]ドイツ軍の捕虜収容所からイギリス人のエアリー・ニーブ、オランダ人トニー・ルテインが脱走し数日後スイスに到着
1942/01/07[3]ユーゴスラビアでドイツ軍は第二次対パルチザン攻撃を開始、チトー軍を南へ追い払った
1942/01/10[3]オランダ領ボルネオの油田、タラカン島が日本軍に制圧された
1942/01/11[3]オランダ領セレベスが日本軍に攻略された
1942/01/12[3]イギリス商船サイクロープスがアメリカ東海岸で雷撃され沈没、ドイツの「太鼓の響き作戦」で1月末までにアメリカ沿岸沖合いで商船46隻が沈没19万6243トン
1942/01/13[3]連合国にある亡命政府は虐殺情報に驚き、「戦争犯罪は処罰されるだろうと宣言」
1942/01/15[3]日本軍がバターン半島の最北端に達した
1942/01/17[3]チャーチルの乗る飛行艇が進路を誤りブレストから発進したように見えたため6機のイギリス軍機が迎撃出動したが幸運に恵まれて失敗した
1942/01/17[3]ムルマンスクへの船団護衛にあたっていたイギリス駆逐艦マタビーリは魚雷攻撃で沈没247戦死
1942/01/20[3]ベルリン郊外のバンぜーでユダヤ人の最終解決法会議が開かれた
1942/01/21[3]シンガポール、ハリケーン戦闘機5が零戦に撃墜された
1942/01/21[3]ロンメルの攻勢でイギリス軍のベンガジからトブルクへ後退が始まった
1942/01/24[3]ボルネオ、バリクパパン上陸を目前にした日本の輸送船団がアメリカ駆逐艦4と潜水艦に攻撃を受け16隻中4隻が沈没、死傷者はなかった
1942/01/25[3]日本軍ニューギニアのラエに上陸
1942/01/26[3]アメリカ軍はアイルランド首相エイマン・デ・ヴァレラの反対を受けながらアルスターに上陸
1942/01/??[1]塩、味噌の通帳制、衣料の切符制が実施
1942/02/??[1]食糧管理法が公布
1942/02/18[1]翼賛選挙貫徹運動基本要綱が閣議決定された
1942/02/23[1]安部信行大将を会長とする翼賛政治体制協議会が成立
1942/03/27[1]日本政府は戦争指導大綱を決定
1942/04/16[14]ネダーマイヤーが内破爆弾の可能性に言及
1942/04/17[3]ドイツ軍の捕虜になっていたアンリ・ジロー将軍がザクセン州ケニヒシュタインの城から脱走
1942/04/18[22]06:30JST海軍監視艇「第23日東丸」、東京から1200kmの洋上にてTF16(第16任務部隊)発見
1942/04/18[22]08:30防衛総司令部は警戒警報発令を東部軍司令部に下令
1942/04/18[3]ドゥー・リットル爆撃、空母ホーネットから発進した16機が本土爆撃し1機がウラジオストック、2機が日本軍船両地区に不時着し8名の捕虜中3名が処刑された
1942/04/18[1]ドゥー・リットル爆撃。山本五十六連合艦隊司令長官の強い意見具申を容れてミッドウェー作戦に至る
1942/04/22[3]「アバクロンビー作戦」イギリス50、カナダ50がイギリス海峡を渡りアルデロの海岸に上陸し失敗
1942/04/22[3]この週、イギリスの「チューブアロイ委員会」はノルウェーにおけるドイツの重水製造を阻止する作戦を勧告
1942/04/30[1]第21回総選挙の開票、翼賛推薦381名、非推薦85名が当選
1942/05/20[1]大東亜会館で翼賛政治創立総会、安部信行を総裁に
1942/08/07[1]米海兵隊、ガダルカナル島上陸
1942/08/07[3]米海兵隊、ガダルカナル島上陸、「ウォッチ・タワー(望楼)作戦」、アメリカ軍16000、戦死1000、重巡洋艦クィンシ、アストリア、ビンセンス、オーストラリアの重巡洋艦キャンベラが沈没、同時に小島フロリダ、ツラギ、ガブツ、タナンボゴへも上陸
1942/08/07[3]ドイツ科学者クラウス・フックスがイギリス国籍を取得、ソ連へチューブ・アロイ計画の最高機密を渡していた
1942/08/09[3]ドイツ軍コーカサスのマイコプ油田に到達、しかし油田は爆破破壊されていた
1942/08/09[3]日本の重巡洋艦「加古」、ソロモンで撃沈
1942/08/10[3]「ペデスタル(台座)作戦」マルタ増援イギリス船団、空母イーグル、駆逐艦フォーサイス撃沈、壊滅的被害でひき返し失敗
1942/08/12[3]チャーチルがモスクワでスターリンと会談
1942/08/15[3]「ペデスタル(台座)作戦」マルタ増援のためイギリス海軍はアメリカのタンカーで1万トンの石油を届けたがタンカーは甚大な被害を受けた
1942/08/17[3]アメリカ軍が太平洋のマキン環礁に上陸、戦死30、数日後撤退、置き去りにされた海兵隊員は捕虜になりクエゼリンで斬首
1942/08/19[3]「ジュビリー(祝祭)作戦」イギリス対岸のディエップにカナダ軍5000、イギリス1000、アメリカのレンジャー50、自由フランス軍24が上陸。最終侵攻のための演習+レーダー能力の威力偵察。全体の戦死1000、捕虜2000。カナダ軍は戦死907、捕虜1874、ドイツ軍は戦死345、捕虜4
1942/08/28[3]ロンメルへの補給船3撃沈、ディエルビ航空機用燃料2200トンが喪失
1942/08/29[3]スイス政府はヴィシー・フランスからスイスへの越境を希望するユダヤ人難民は送還しないと決定
1942/08/30[3]ロンメルへの補給船サン・アンドレア撃沈、戦車用燃料喪失
1942/08/31[3]ヴィニツァのヒトラー司令部での会議でスターリングラードへ突入したらすべての男は消すことを命令
1942/09/01[3]スターリングラード攻撃の開始
1942/09/03[1]大本営、支邦派遣軍に重慶作戦準備を命じる
1942/09/23[3]「マンハッタン計画」にレスリー・R・グローブス准将が管理責任者に任命される
1942/09/25[3]オスロでナチの党集会が開かれている最中に、同市のゲシュタポ司令部がイギリス軍航空機によって攻撃された。ノルウェー・レジスタンスの記録破壊と威力誇示
1942/10/01[3]香港から日本にイギリス人捕虜1816を輸送するリスボン丸が魚雷で沈没、多数が閉じ込められ死亡840
1942/10/03[3]ペーネミュンデでA4(12トンロケット)の発射に成功、1トンの弾頭をつけ320km飛ぶ
1942/10/13[12]ガダルカナル島を日本海軍が砲撃
1942/10/18[3]「スワロー(つばめ)作戦」ノルウェー・リュカンにあるドイツの重水工場破壊のためノルウェー人4をヴァルモルク近くにパラシュート降下させた
1942/10/26[12]南太平洋海戦(ソロモン海戦)アメリカ空母ホーネット撃沈、エンタープライズ大破、日本空母2損傷
1942/11/06[3]「ミネルバ作戦」アンリ・ジロー将軍、南フランスからイギリス潜水艦でジブラルタルへ
1942/11/06[3]イタリア・ジェノバ空爆
1942/11/07[3]「トーチ作戦」開始、軍艦300、輸送船370、将兵107000がフランス領北アフリカ(アルジェ、オラン、カサブランカ)に上陸
1942/11/09[12]第3次ソロモン海戦、戦艦比叡、霧島を失う
1942/11/10[3]チャーチル、ロンドン市長主催の昼食会で「終わりの始まりでもありません、おそらくは始まりの最後でしょう」
1942/11/11[3]ヒトラーは非占領地域(ヴィシー・フランスなど)を占領下に置くと指令
1942/11/16[3]日本の新聞が「日本を攻撃する航空隊の搭乗員は死刑に処す」という声明を掲載
1942/11/17[3]フランス・サンナゼール爆撃(イギリス基地からアメリカ第8軍の最初の爆撃)
1942/11/19[3]「スワロー(つばめ)作戦」は「グラウス(雷鳥)作戦」に発展、グライダー2に34名が分乗し北海を渡ったが、グライダー2と航空機1が着地時に墜落した17名死亡、重傷者4名と捕虜15はその日の内に射殺された、その他の重傷者4名は病院で殺害
1942/11/19[3]赤軍はスターリングラード北方で反撃を開始、大砲2200で砲撃しスターリングラードにドイツ軍を閉じ込める作戦
1942/11/20[3]赤軍はスターリングラード南方から反撃を開始し包囲をめざす
1942/11/20[3]「ストーンエイジ(石器時代)作戦」で輸送船団がエジプトからマルタに到着、マルタ包囲が終わった
1942/11/21[3]フォン・パウルス将軍は囲みを突破してドン川へ後退を提案したがヒトラーに拒否された
1942/11/22[3]スターリングラード包囲が閉じ25万のドイツ軍が包囲された
1942/11/22[3]ガダルカナル、アメリカ艦ジュノー沈没水死600
1942/11/24[3]ヒトラーはフォン・パウルス将軍に断固死守を命令
1942/11/25[3]「リラ作戦」フランスのツーロン港、フランス軍艦57がドイツ軍に占領
1942/11/27[3]フランスのツーロンでSS部隊が接収を始めるとフランス艦隊司令官ジャン・ド・ラボルド提督は艦艇に自沈を命じた、戦艦2、巡洋戦艦2、重巡4、軽巡2、航空機運送艦1、駆逐艦30、潜水艦16が沈み、潜水艦3は逃亡しアルジェの連合軍にさんか、潜水艦1はカルタゴでドイツ軍に抑留、1940/6のダルラン提督のイギリスに対する約束の実行だった
1942/11/30[3]タサファロンガ海戦(第3次ソロモン海戦)でガダルカナル向けの日本輸送船団は引き返した
1942/12/02[3]シカゴ大学でエンリコ・フェルミが連鎖核反応に成功
1942/12/09[3]オーストラリア軍はニューギニアのゴナで日本軍の最後の抵抗を沈黙させ日本軍の戦死500を確認した
1942/12/10[1]大本営、支邦派遣軍に重慶作戦準備の中止を指示
1942/12/23[3]ペーネ・ミュンデでジェット推進ミサイルV1が2.4km飛翔した
1942/12/23[3]ダルラン提督がフランス人学生の手によりアルジェで暗殺され、フランス軍総司令官にはダルランに代わって字ロー将軍が任命された
1942/12/31[1]大本営会議でガダルカナル島の奪回作戦中止が決定
1942/12/31[3]イギリス空軍はデュッセルドルフ爆撃、電波兵器オーボエを使用
1942/12/頃[3]ポーランドのポニアトワで捕虜になっていたソ連兵18000が食物を与えられず餓死
1943/01/01[3]「カニバル(人食い)作戦」イギリス軍はインド・ビルマ国境のチッタゴンからドンバイクへ向かう
1943/01/03[3]ルソン島奥地に逃れたアメリカ陸軍将校ラルフ・B・プレーガーはフィリピン人5000に供給する武器の空中投下をマッカーサーに求めたが拒絶された、代わりに情報収集を行うように指示
1943/01/04[3]「カサブランカ会談」ルーズベルトとチャーチル、ドイツと日本の無条件降伏を確認
1943/01/18[3]ドイツ軍がワルシャワのゲットーに入り移送を再開、ユダヤ人600が路上で殺されトレブリンカへ6000が運ばれて殺された。武器を入手したユダヤ人はピストルで抵抗し機関銃に応戦した
1943/01/18[3]ワルシャワのユダヤ人が武装抵抗
1943/01/19[3]「バンカム(場当たり)作戦」イギリスはカルカッタ南東1600kmのアンダマン島に潜水艦で6名を潜入させ状況を偵察した、32日後3名はセイロンに戻る
1943/01/20[3]エニグマ、イタリアのC38m暗号解読によりイギリス海軍はトリポリ西で14隻の石油運搬はしけの内10隻を撃沈
1943/01/21[3]ワルシャワのユダヤ人が武装抵抗、ドイツ軍は戦死12、ゲットーから退去した
1943/01/21[3]ブレッチリーはエニグマの鍵やまあらし(ドイツ空軍)を解読
1943/01/22[3]日本軍の水上機がオーストラリア北東沖で船を撃沈し、着水してオーストラリア宣教師レオナード・ケンティシューを捕虜にする、その後ニューギニアのある島でサゲシマ・マンガン中尉に斬首された、サゲシマは1948/8香港で裁判にかけられ処刑された
1943/01/23[3]「カサブランカ会談」最後の全体会議、北方船団の損失がすさまじいのでルーズベルトはロシアの援助削減、チャーチルは最優先を主張。日本よりもドイツが先を確認し地中海作戦を優先。
1943/01/24[3]スターリングラードのフォン・パウルスはヒトラーに降伏の許可を求めたが、ヒトラーは陣地を死守せよと命令
1943/01/26[3]ドイツ国内では15歳以上のヒトラー少年団員が高射砲部隊の配置につくことになった
1943/01/27[3]アメリカ第8空軍がドイツのヴィルヘルムスハーフェンへ最初の空爆、ドイツ軍22機撃墜、アメリカ爆撃機64のうち3機が損失
1943/01/28[3]ニューギニア日本軍はオーストラリア軍のワウ守備隊を攻撃してポートモレスビーに到達しようとしたが撃退された
1943/01/30[3]レンネル島近海でガダルカナルへ向け航行中のアメリカ増援艦隊を日本航空部隊が襲い重巡シカゴを撃沈
1943/01/30[3]イギリス空軍ベルリン、ハンブルク爆撃、ゲッペルスのナチ政権10周年の演説中
1943/01/31[3]スターリングラードのフォン・パウルス降伏、包囲されたドイツ兵284000のうち戦死160000、空路34000が退避、捕虜90000は徒歩でシベリアへ向け行進、数万人が行進中に、さらに数万人が捕らわれたまま死亡
1943/02/01[3]テネシー州オークリッジにウラン235精製工場の建設が着工
1943/02/08[3]ドイツ軍はクルクスを失う
1943/02/08[3]ドイツ軍はベルゴロドを失う
1943/02/09[3]04:25ガダルカナルのすべての組織的抵抗が終わった、日本5000、米軍2000の戦死者
1943/02/14[3]「ロインクロス(腰布)作戦」イギリス軍ウィンゲート旅団グルカ兵3000はインパールを出発しビルマの密林に入った。日本軍制圧下に800kmはいり3つの橋を爆破しイラワジ川を渡る
1943/02/16[3]「ガンナーサイド(砲手の側)作戦」イギリス軍は6名のノルウェー人をバルモルク北西の湖にパラシュート降下させた、9日後にツバメ派遣隊と合流し重水濃縮装置を爆破し誰もつかまらなかった
1943/02/16[3]「白バラ」ドイツ人3名がミュンヘン大学の前で半ナチのビラ配布
1943/02/18[3]「白バラ」ドイツ人2名(ハンス、ゾフィ)が逮捕されギロチン
1943/02/18[19]B29試作機がエンジン火災により墜落、乗員11名全員が死亡
1943/02/22[3]ドイツとブルガリアの間でユダヤ人追放協定ができた
1943/02/25[3]エニグマ解読、東部ドイツ空軍戦闘部隊の鍵(イタチ)
1943/02/25[3]イギリス空軍は夜間、アメリカ空軍は昼間の爆撃を分担し24時間爆撃体制に入り最初はニュルンベルクが白昼爆撃された
1943/02/27[3]フィンランド政府はこれ以上のユダヤ人追放を拒否した
1943/02/29[3]エニグマ解読、南ウクライナのドイツ空軍管理地域の鍵(蘭)
1943/03/03[3]イギリスで空襲警報により地下鉄駅ベスナル・グリーンに避難する時パニックが起こり階段で人々が押し倒された173人が死亡
1943/03/04[3]「カニバル(人食い)作戦」イギリス軍の作戦は日本軍の逆襲により失敗した
1943/03/04[3]ニューギニアのラエとサラモアへの日本軍増援部隊はオーストラリアの戦闘機アメリカ爆撃機により壊滅、駆逐艦4、兵員輸送船8隻全部が沈没、溺死3500、日本軍航空機150機のうち102機が撃墜された
1943/03/04[3]イギリス爆撃機442機がルール地方エッセンを爆撃、工業地帯65ヘクタールを破壊
1943/03/06[3]イギリス爆撃機が再度ルール地方エッセンを爆撃
1943/03/09[3]夕方にニュルンベルク爆撃
1943/03/10[3]イギリス空軍はミュンヘンを夜間爆撃
1943/03/13[3]ヒトラー暗殺計画(移動用航空機の爆破)が起爆装置不良により失敗
1943/03/13[3]アメリカ財務省はポーランドレジスタンスに500万ドルの提供を求めるドノバン大佐の要求に同意、その後14ヶ月の間に1500万ドルが送られた
1943/03/20[3]ドイツ海軍のエニグマ暗号解読不調により3週間で107隻が大西洋で沈没
1943/03/21[3]ヒトラー暗殺計画(ベルリンで第1次世界大戦の戦没者記念式典)が企画されたが爆弾が入手できず失敗
1943/03/23[3]ドイツの統計報告によればポーランド総督府管内の収容所で1274166のユダヤ人処分、ワルテガウで145301
1943/03/25[3]キスカ・アッツへの日本海軍にアメリカ艦隊が挑んだ、日本の重巡那智とアメリカの重巡ソルトレークシティーが大破(コマンドルスキー諸島沖海戦)
1943/03/27[3]イギリス空軍はベルリンの夜間空襲、爆弾1050トン、損害9機
1943/03/29[3]ヒトラーはイギリス攻撃のためのミサイルサイロ建設を承認
1943/03/頃[3]日本の物理学者は東京で会合を持ち原子爆弾の製造は不可能だと結論した
1943/04/02[19]最初の実践配備B29がインドに到着
1943/04/03[3]イギリス空軍はエッセンのクルップ工場を爆撃、爆弾900トン
1943/04/05[3]イギリス空軍はキール爆撃、爆弾1400トン
1943/04/05[3]アメリカ空軍はパリ近郊のルノー戦車組立工場爆撃、フランス市民228死亡
1943/04/05[3]アメリカ空軍はナポリ港湾施設爆撃、イタリア人221死亡
1943/04/05[3]アメリカ空軍はアントワープのミネルバ航空機工場爆撃、航法を間違い数発の爆弾だけが工場に命中、住宅地域に大被害
1943/04/07[12]い号作戦開始、ガダルカナル島への航空攻撃
1943/04/07[3]極東アメリカ軍は日本軍による真珠湾以来最大の攻撃を受けた、目標はガダルカナル、ツラギ、案理科駆逐艦アーロンフォード沈没、ニュージーランドのコルベット艦モア沈没、商船1沈没、海域は膨大な日米の艦船が沈んでいるために「鉄底湾」と言われるようになった
1943/04/09[12]い号作戦、ニューギニアのオロ湾への航空攻撃、
1943/04/12[12]い号作戦、ポートモレスビーへの航空攻撃、
1943/04/12[3]日本軍航空機177機でポートモレスビーを攻撃
1943/04/13[3]アメリカ太平洋艦隊の通信部隊が日本軍の通信を解読し山本提督の視察目標と日時を知った
1943/04/14[12]い号作戦、ニューギニアのミルン湾、ラビへの航空攻撃、
1943/04/17[3]「ピーコック作戦」で山本提督の乗る一式陸攻を撃墜
1943/04/18[12]朝、2機の一式陸攻に乗る山本提督はP-38の編隊に撃墜された
1943/04/18[3]ヤヴォロフでユダヤ人が抵抗、ドイツの報復で3489が射殺された
1943/04/19[3]ワルシャワのゲットーでユダヤ戦士1200が暴動を開始、ユダヤ人7000、トレブリンカへ7000、1万人以上がキリスト教徒地区へ逃亡したが3分の1は後につかまった
1943/04/21[3]山本提督の国葬
1943/05/09[3]チュニジアのドイツ軍が無条件降伏
1943/05/11[3]12日にかけてハマメット、ケレビア間の枢軸軍が降伏、捕虜238243
1943/05/12[3]アッツ島守備隊2500にアメリカ軍11000が敵前上陸「ランドグラブ(土地略奪)作戦」
1943/05/13[3]イギリス空軍はルール地方のボフム爆撃、爆弾1000トン
1943/05/14[3]日本潜水艦がアメリカの赤十字マークをつけ点灯していた病院船セントアを撃沈、溺死268
1943/05/14[3]「ポイントブランク作戦」が英米軍の参謀長会議で承認、ドイツの戦略爆撃計画
1943/05/14[3]イギリス空軍はドイツの奥深くピルゼン郊外のスコダ兵器工場を夜間爆撃
1943/05/16[3]「チャスタイズ(懲罰)作戦」ルール地方の3つのダムに対する爆撃計画開始、跳躍爆弾の使用、3つのうち2つのダムを破壊
1943/05/17[3]爆撃機「メンフィスの美女」が25回の爆撃行きを終えた
1943/05/17[3]英米の電波情報交換と分配に関する協定が成立、ドイツ軍のエニグマ、イタリア軍のC38m、日本軍の紫暗号解読の標準化するため「ウルトラ」というコード名がつけられた
1943/05/18[3]ヒトラーは極秘命令「アリラック作戦」を承認、イタリアが枢軸側から脱落したときのイタリア占領計画
1943/05/19[3]チャーチルはアメリカ議会で戦勝まで4,5年の期間を示唆した
1943/05/20[3]チャーチルとルーズベルトはヨーロッパ上陸作戦が1944年5月より遠くない時期とすることを決定
1943/05/24[3]デーニッツ元帥は北大西洋からのUボート撤退を命じた
1943/05/24[3]アアウシュビッツにメンゲレが着任
1943/05/24[3]イギリス空軍はドルトムントを夜間爆撃
1943/05/26[3]英米が原子爆弾の情報交換に同意
1943/05/26[3]アルベルト・シュペーアがV1とV2の製造に同意
1943/05/29[3]イギリス空軍はブッパータールを夜間爆撃、火事場嵐で市民2450死亡
1943/05/30[3]アッツ島の戦闘が終了、日本2500、アメリカ600の戦死
1943/06/05[19]B29バンコク空爆
1943/06/13[19]B29成都へ入る
1943/06/15[19]B29、68機が八幡へ発進、往復3200マイル、5120km、500ポンド爆弾を2トン
1943/06/16[19]B29、47機が八幡空爆 午前0時38分
1943/06/16[3]ヌーア・イナヤト・カーン(マドレーヌ)インドの王女がフランスに送りこまれた、1944/9にダッハウで射殺
1943/06/22[3]アメリカ海兵隊がトロブリアンド諸島のウッドラーク島に上陸
1943/06/23[3]アメリカ海兵隊がトロブリアンド諸島のキリウィナ島に上陸
1943/06/23[3]チャーチルはドイツ爆撃よりチトーのパルチザン支援を優先することを命じた
1943/06/25[3]イギリス諜報員トロトバスが指揮してリール郊外のドイツの機関車製造所襲撃
1943/06/27[3]チャーチルは爆撃記録映画を見て「我々は野獣なのか、こんなことまでやっているのか」と言った
1943/06/頃[3]イギリスはエニグマ暗号機と使用手引きをソ連に提供した
1943/06/30[3]アメリカ軍がソロモン諸島に攻勢をかけてきた
1943/07/24[3]ローマのファシスト大評議会はムッソリーニに反対しイタリア軍の統帥権をヴィットリーオ・エマヌエーレ国王に渡した
1943/07/24[3]ムッソリーニはローマからポンツァ島に護送
1943/07/24[3]「ゴモラ作戦」開始、イギリス空軍はハンブルクに23000トンの爆撃、レーダー妨害のためのウィンドーを使用、アルミ箔を空中からまくチャフ
1943/07/27[3]キスカから日本軍守備隊はひそかに脱出
1943/07/28[3]アメリカ空軍ハンブルク爆撃、2326トンの焼夷弾でドイツ人42000以上が焼死
1943/07/31[3]チャーチルはルーズベルトに91日間で85隻のUボート撃沈を伝える
1943/08/01[3]15隻のPTボートがレンドバから出撃、PT-109は駆逐艦「天霧」に激突、J・F・ケネディ他2人はクロス島に泳ぎ着き後に救出された
1943/08/02[3]トレブリンカ収容所で死体焼却の作業にあたっていたユダヤ人が蜂起、700人のうち500人は射殺されたが150人は逃げおおせた
1943/08/06[3]アメリカ海軍はコロンバガラ島沖で増援隊輸送中の日本駆逐艦3隻撃沈
1943/08/13[3]アメリカの物理学者ノーマン・F・ラムゼーの指導で原子爆弾の投下実験(落下時の安定性実験)をした
1943/08/13[3]チャーチルとルーズベルトは原子爆弾に関する協定を結んだ、オーバーロード作戦のDデーは1944/5/1と決定
1943/08/15[3]アメリカ軍6000が太平洋のベラ・ラベラ島に上陸
1943/08/15[3]アメリカ軍29000、カナダ軍5300がキスカ上陸、日本軍はどこにもいなかった
1943/08/17[3]アメリカ軍メッシナに入る
1943/08/17[3]アメリカ軍シュバインフルトのボールベアリング工場、レーゲンスブルクのメッサーシュミット製造工場を爆撃、500機のうち60機が撃墜され搭乗員100が戦死
1943/08/17[3]「ヒドラ作戦」イギリス空軍がペーネミュンデ爆撃
1943/08/17[3]ドイツ空軍参謀総長ハンズ・イェショネクが自殺
1943/08/18[3]イギリスの欺瞞作戦、イギリスの東アングリアにある発電所がドイツの破壊工作として報じられた(嘘)
1943/08/22[3]ロケット試験がバルト海沿岸で行われ海に沈むはずだったロケットはデンマークのボルンホルム島に落ちた
1943/08/22[3]ドイツ軍ウクライナのハリコフから撤退
1943/08/23[3]ケベックでチャーチルはルーズベルトに「ソ連軍のベルリン到達と同時に我々も到達したい」、西側もソ連もベルリンからほぼ1600kmの位置にいた
1943/08/23[3]イギリス軍700機がベルリン爆撃、イギリスの損害は搭乗員の戦死298、捕虜117、ベルリンでの死者854
1943/08/27[3]アメリカ軍185機がイギリス海峡沿岸のエベルクレクにあるロケット発射場を爆撃し完全に破壊した
1943/08/27[3]チトーのパルチザンがソ連、アメリカ、イギリスの仕官を同席させてヤイツェで国民集会を開く
1943/08/28[3]デンマークにおけるヒトラーの代理人ベスト博士はデンマーク政府に市民管理のための強行措置を通告しデンマーク政府に拒否される
1943/08/29[3]ドイツはデンマークを再占領し、デンマーク軍の武装解除、国王を宮殿に軟禁
1943/08/30[3]赤軍がイエルニャ奪回
1943/08/30[3]1943/09/03[3]戦死225、捕虜108、ドイツ側の死者87
1943/08/頃[3]第13SS師団のイスラム教徒兵の反乱、エルサレムのムフティ、アルフサイニが説得して静めた
1943/09/01[3]イタリア政府が休戦条約の交渉を受け入れ,9/2の予定
1943/09/01[3]アメリカ軍太平洋のベーカー島に上陸
1943/09/01[3]アメリカ軍太平洋の南鳥島を爆撃
1943/09/02[3]赤軍はスミを奪回
1943/09/02[3]ヒットラーはアルベルト・シュペーアを工業生産管理のトップに任命
1943/09/03[3]連合軍はイタリア本土上陸をめざす「ベイタウン作戦」を会し、モンゴメリー将軍の第8軍はメッシナ海峡を渡りカラブリアに上陸、イタリア政府は休戦条約を厳守し、条約は午後に調印
1943/09/03[3]イギリス機300が965トンの爆弾をベルリンに投下、3回目、ドイツ側の死者346、イギリス側は130人を失う
1943/09/05[3]ニューギニアのナズダブにアメリカ、オーストラリアのパラシュート部隊2000が降下、日本軍はラエに向けて退却
1943/09/08[3]イタリアと連合軍の間の休戦条約発効
1944/02/17[12]トラック環礁にある日本海軍の前進基地が大空襲を受け機能を失う
1944/02/20[12]トラック環礁からラバウル航空隊が撤退
1944/10/30[19]B29偵察機、東京上空偵察用の機体がサイパン到着
1944/10/31[3]デンマークレジスタンスの要請によりゲシュタポの記録消滅のためデンマークのオルフスにあるゲシュタポ司令部爆撃が実施された。イギリス航空機24によって北海を越えて900マイル。
1944/11/01[19]B29偵察機、正午、東京上空偵察開始
1944/11/02[3]ベルリンの極秘司令は鉄道の輸送過重に対し運河輸送の利用を要求(11/08ウルトラ)
1944/11/07[3]ルーズベルトが大統領に4選された
1944/11/07[3]リヒアルト・ゾルゲ東京で処刑
1944/11/07[3]ブダベストでハンナ・セネス処刑(ユダヤ女性)
1944/11/10[3]アントワープに着任したクレア・H・アームストロング准将はアントワープ防衛のために対飛行爆弾部隊を組織
1944/11/11[3]チャーチルとドゴールは車に同乗しパリの凱旋門、無名戦士の墓にいく
1944/11/12[3]スコットランドのロシマスからイギリス爆撃機23が北極圏ノルウェーのトロムセ・フィヨルドに停泊するティルピッツを攻撃、各機は12000ポンド爆弾(トールボーイ)をもち2発が命中し艦は転覆
1944/11/14[3]パールハーバー攻撃に参加した日本の駆逐艦「潮」がマニラ湾で攻撃され大破
1944/11/14[3]バルカンではブルガリアとユーゴ部隊がスコピエに入りドイツ軍のバルカン支配は終わった
1944/11/16[3]アントワープに飛行爆弾10が落下、市民263死亡
1944/11/17[3]日本軍は貴陽に向け進撃
1944/11/17[3]アメリカ潜水艦が黄海で日本の護送空母「神鷹」撃沈
1944/11/17[3]東京で原子力科学者が「本年2月以来大きな進展がない」と報告
1944/11/19[3]「エクステンド・キャピタル(資本拡大)作戦」イギリス軍はインド東部国境からビルマに突入
1944/11/23[3]フランス・アメリカ軍はアルザスのストラスブールに入り国立解剖協会で首なし死体を発見
1944/11/23[19]B29サイパンから東京空爆に発進、往復3000マイル、離陸重量63トン
1944/11/24[19]B29東京空爆、午後1時39分、初めてジェット気流に遭遇
1944/11/24[3]日本軍南寧占領
1944/11/25[3]アウシュビッツで残りのガス室の破壊が始まる
1944/11/25[3]レイテ湾で日本軍の神風攻撃が本格化、空母3の損害、イントレピッドで65名が倒れた
1944/11/25[3]V2がロンドンのウルフス・デパートに命中し市民160死亡
1944/11/25[3]オーストラリアからインドネシア海域へ向かうイギリス潜水艦スターディが日本の貨物船を停戦させ、日本人は舟を捨てた。残されたインドネシア婦女子50を乗せたままイギリス人により爆破された
1944/11/29[3]ドイツのスパイ2がイギリスのメイン州クラブトリー・ネックの海岸に潜水艦から上陸、ウルトラの傍受によって1ヶ月後に捕らえられた
1944/12/04[3]ハイルブロン爆撃、爆弾2000トン
1944/12/07[3]レイテ沖の神風攻撃により輸送駆逐艦ウォード大破、砲撃で処分。駆逐艦マハン戦死10、同じく砲撃で沈められた、その後の攻撃で空母キャボットで戦死36、駆逐艦オーリックで戦死32
1944/12/08[3]ウルトラ情報、12/03ベルリン駐在の日本海軍武官が東京に当てた通信、「航空機生産は順調だが燃料不足の為に出動の機会がない」
1944/12/12[3]アメリカの攻撃侵攻艦隊がレイテ湾からミンドロへ向かう
1944/12/13[3]ミンドロへ向かうアメリカ艦隊、神風攻撃により巡洋艦ナッシュビルで戦死131、駆逐艦ハラデン14戦死
1944/12/14[3]アメリカ攻撃侵攻艦隊はミンドロ上陸に成功したが台風により駆逐艦3が転覆、スペンス280、ハル195、モナハン244が水死
1944/12/14[3]フィリピンのパラワン島でアメリカ軍捕虜150が虐殺され5名が生き残った
1944/12/15[3]日本の捕虜輸送船「鴨緑丸」をアメリカ機が撃沈、江の浦丸に乗り換える
1944/12/16[3]アルデンヌの戦い「秋の霧作戦」始まる
1944/12/23[3]アルデンヌの戦いの間の悪天候と霧が回復、航空優位を利用して持ちなおす
1944/12/24[3]ドイツ軍のジェット爆撃機16がアルデンヌ連合軍の補給鉄道を爆撃(史上初のジェット爆撃機による作戦)
1944/12/24[3]イギリスに対して最後の飛行爆弾が飛来し、爆弾には捕虜の手紙も入っていた
1944/12/25[3]アメリカのハンフォード、原子力研究センターで原子炉からウランが取り出された、これからプルトニウムが作られることになる
1944/12/25[3]ギリシャで共産勢力がアテネを支配、内戦の危機が起こり、チャーチルとソ連代表ポボフ大佐が調停に成功
1945/01/01[3]午前零時12分にアントワープに飛行爆弾、市民37死亡
1945/01/01[3]ドイツ空軍1000機の攻撃開始、アルデンヌ攻勢のためだったが悪天候のために延期されていた、損失277機
1945/01/01[3]アルデンヌのアメリカ軍はバルジ攻撃を開始
1945/01/01[3]奉緬鉄道、ノン・プラドク爆撃で連合軍捕虜95死亡
1945/01/03[3]台湾、沖縄沖でミッチャー中将指揮の航空攻撃が開始
1945/01/06[3]ルソン沖で神風攻撃により兵員輸送艦キャラウェイで乗員29名死亡、兵員1188は無傷、駆逐艦ウォークの艦長デービスは火だるまになりながら操艦、巡洋艦ルイビルで水兵31死亡、艦長テッド・チャンドラも焼け爛れながら操艦、いずれの艦長も死亡
1945/01/09[3]アメリカ軍がルソン島に上陸開始
1945/01/12[3]合衆国戦争情報局がアメリカ軍戦死者数を公表、戦死138393、行方不明73594
1945/01/16[3]イギリスでチャーチルが11月末までの戦死者数を公表、イギリス軍戦死199497、カナダ軍戦死28040、オーストラリア軍18015、インド軍17415、ニュージーランド軍8919、南アフリカ軍5783、戦死の合計は250000以上とした
1945/01/14[3]アメリカ軍はアルデンヌでバストーニュに達し包囲されていたものを解放
1945/01/15[3]ロンドン・パリ間の鉄道連絡が再開
1945/01/23[3]赤軍は東プロイセンのレツェン、ラステンブルクに達し「狼の巣」をじゅうりん
1945/01/24[3]「メリディアン(頂点)作戦」イギリス軍機がスマトラ島のパレンバンにある日本の石油精製施設攻撃を開始75%の損害を与えた
1945/01/26[3]夜、アウシュビッツにソ連軍が入る
1945/01/30[3]ルソン島カバナツアンで日本軍のアメリカ捕虜を収容所から救出する作戦が実行され531名を解放
1945/01/31[3]ソ連軍がオーデル川を渡りキーニッツに橋頭堡を確保、ソ連軍の補給線が長くなりすぎてきた
1945/01/31[3]サントマリーオーミーヌ、アメリカ軍で南北戦争以来の脱走兵銃殺が執行された
1945/02/01[3]ベルリンで要塞都市が宣言され市民が準備に動員された
1945/02/04[3]スターリン、ルーズベルト、チャーチルがヤルタで会談
1945/02/09[3]マニラで日本軍が3日間にわたって女性20以上を陵辱、エスター・グラシア・モラスが後に東京裁判で証言
1945/02/10[3]ヤルタ会談で南樺太、千島列島のソ連帰属が合意された
1945/02/13[3]イギリス爆撃機によるドレスデン爆撃
1945/02/14[3]アメリカ爆撃機によるドレスデン爆撃
1945/02/15[3]アメリカ爆撃機による第二次ドレスデン爆撃
1945/02/15[3]アメリカ軍艦90に護衛された空母20から艦載機が日本本土を始めて空襲
1945/02/16[3]アメリカのパラシュート連隊がコレヒドールに降下
1945/02/16[3]アメリカの艦載機が硫黄島爆撃を開始し、アメリカ遠征軍が硫黄島に向かってサイパンを出航
1945/02/17[3]マニラ攻防戦で市民の大虐殺が起きる
1945/02/頃[3]マニラ南方ロス・バニョスの捕虜収容所をアメリカ軍とフィリピンゲリラが攻撃し捕虜2100を解放、損害2
1945/02/17[3]ペーネミュンデからV2施設と科学者が撤退
1945/02/19[3]アメリカ海兵隊、硫黄島上陸作戦の開始、10:20に硫黄島の擂鉢山に星条旗がひるがえる、旗を立てた2名は後に戦死、6名による記録写真は後で撮影されたもの
1945/02/19[3]ヒムラーはスェーデン赤十字を通して西側連合軍との交渉可能性を打診
1945/02/21[3]「クラリオン(戦闘ラッパ)作戦」ドイツ軍兵站路線の爆撃破壊が始動
1945/02/21[3]トルコがドイツに宣戦
1945/02/27[3]コレヒドール島の日本軍が組織的抵抗を終え日本軍の戦死6000
1945/03/03[3]フィンランドがドイツに宣戦
1945/03/03[3]前年9月以来、V1がロンドンに落下、即座にハーグ近郊の発射基地をイギリス軍が爆撃、オランダ市民520死亡
1945/03/04[3]アメリカが武蔵野航空機工場を爆撃、日本に対する最後の精密爆撃
1945/03/05[3]ドイツが1929年生まれの15,6才少年の徴兵を開始
1945/03/07[3]アメリカ軍はレマゲンに達しライン川にかかるルーデンドルフ橋を望んだ。ドイツ軍は橋の爆破に失敗
1945/03/09[3]チャネル諸島に閉じ込められていたドイツ軍がフランスのグランビル港を襲撃
1945/03/09[3]テニアンからアメリカ爆撃機334が東京を爆撃2000トンの焼夷弾を落とした、死者130000
1945/03/15[3]オラニエンブルクのトリウム鉱石処理工場を爆撃、爆弾1300トン
1945/03/16[3]レマゲンの鉄橋はアメリカ砲兵隊の砲撃の振動で崩れ落ちたが浮き橋2本が残った
1945/03/17[3]シュノーケル装備の潜水艦1がアメリカ東海岸へ出航
1945/03/18[3]日本軍が特攻飛行爆弾を使用、空母ワスプ101戦死
1945/03/21[3]ゲシュタポのデンマーク本部、元シェル石油ビルにイギリス機18、アメリカ機28が低空照準爆撃。航空機9の損失、1機が学校に墜落爆発し、つづいて目標を誤った僚機が爆撃し尼僧11児童86を含む112が死亡
1945/03/27[3]アルゼンチンが日本とドイツに宣戦、53番目
1945/03/27[3]ドイツ軍はハーグ近郊から最後のV2を発射しロンドンで134、アントワープで27の死亡
1945/03/30[3]U-96がヴィルヘルムスハーフェンの潜水艦基地で爆撃され沈没、艦長ハインリッヒ・ヴィレンブロック戦死
1945/03/31[3]米軍が沖縄の慶良間列島の制圧完了、特攻艇350を拿捕
1945/04/01[3]「アイスバーグ(氷山)作戦」沖縄侵攻作戦を開始し、沖縄に上陸。アメリカ軍戦闘部隊18万、支援部隊388000、82日間の戦闘が続いた
1945/04/01[3]ヒトラーは総司令部を地下壕に移した
1945/04/01[3]スターリンはベルリン攻撃を4月16日に設定、西側連合軍は不承不承ながら承諾
1945/04/01[3]チャーチルはアイゼンハワー将軍に、できるだけ東進して赤軍に出合うことを打電
1945/04/03[3]アメリカ軍がオールトーフの虐殺収容所に到達し、西側連合国全体に衝撃が走った
1945/04/05[3]アメリカ軍は九州南端に上陸する「オリンピック作戦」の計画作成に着手、1946年3月1日に本土侵攻する「コロネット(頭飾り)作戦」の展開をきめた
1945/04/06[3]日本軍は沖縄沖で「菊水作戦」による特攻攻撃を開始した、アメリカ駆逐艦2、弾薬輸送船2、戦車揚陸艦1が沈没したが、日本は355機と同数のパイロットを失った
1945/04/07[3]日本軍は沖縄沖で戦艦大和を失う
1945/04/25[3]エルベ川の西岸レクヴィツでアメリカ軍とソ連軍が出会う
1945/04/25[3]アメリカ陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンがトルーマン大統領に原爆4ヶ月以内に完成すると通告
1945/04/27[3]ソ連軍はベルリンの4分の3を確保
1945/04/27[3]トルーマン大統領と顧問団は原爆の目標を討議、特別目標委員会、広島を案とする
1945/04/28[3]ムッソリーニがパルチザンによりドンゴ村で射殺され、ミラノに運ばれ翌日逆さ吊りにされた
1945/04/29[3]ダッハウの強制収容所で逆上したアメリカ兵によってSS部隊346名が殺された、残っていた収容者33000のうちユダヤ人2539
1945/04/29[3]ロッテルダムにイギリス爆撃機3000が補給品6000トンを投下
1945/04/30[3]14:30ヒトラー自殺
1945/05/01[3]ロードス島のドイツ守備隊が降伏
1945/05/01[3]イギリス軍がラングーン奪回を図る「ドラキュラ作戦」開始、グルカ兵がラングーンに降下した
1945/05/01[3]オーストラリア軍がボルネオのタラカン島に上陸、日本軍は18日後に敗退
1945/05/02[3]ジューコフがドイツ降伏を受諾、03:00に停戦発効
1945/05/02[3]ドイツ爆撃機がノルウェーのトロンハイムからスコットランドに亡命
1945/05/04[3]日本軍の特攻機が沖縄沖でアメリカ艦7隻に命中、水兵446戦死
1945/05/05[3]マウトハウゼン収容所解放、生存者11万、ユダヤ人2万8千
1945/05/07[3]連合国、ソ連ススロパロフ将軍、ドイツのヨードル将軍、降伏が23:01に発効
1945/05/08[3]チェコのプラハ攻防戦でドイツ軍が無条件降伏、朝の5時4分
1945/05/08[3]イギリスとアメリカの欧州戦勝利の日となった
1945/05/09[3]ソ連の勝利の日となった
1945/05/10[3]ドイツで戦争犯罪に関連する自殺が相次ぐ
1945/05/11[3]日本軍の特攻機が沖縄沖でアメリカ艦、空母バンカーヒルに命中、396戦死
1945/05/11[3]U-234が太平洋上でアメリカ艦に投降
1945/05/14[3]原子爆弾を投下する目標設定委員会、広島と東京などを検討、京都、広島、横浜、小倉が選ばれた
1945/05/15[3]ビルマで民族指導者アウン・サンがイギリスに協力を申し出て受け入れられた
1945/05/24[3]沖縄の読谷飛行場に日本軍10機が強行着陸し飛行機7ほか26機に損害を与え7万ガロンの航空燃料に火を放った後に倒れた
1945/05/23[3]リューネブルクで捕らえられていたハインリヒ・ヒムラーが青酸カリで自殺
1945/05/24[3]400機を越えるアメリカ爆撃機が東京中心部と南部工業地帯を爆撃
1945/05/25[3]アメリカ軍は九州南端に上陸する「オリンピック作戦」の実行を11月1日に決定
1945/05/26[3]日本軍は南寧から撤退
1945/05/28[3]ホーホー卿を逮捕
1945/05/31[3]ペンタゴンで日本に対する原爆攻撃に関与する科学者、軍人が会合。オリンピック作戦より良いと判定された
1945/06/05[3]沖縄方面を襲った台風はアメリカの戦艦4、空母8を含む多数の艦艇に損害を与えた
1945/06/08[3]東京の御前会議で戦争を最後まで戦い抜くことを閣議決定
1945/06/10[3]オーストラリア軍ラプアン島上陸
1945/06/11[3]チェコスロバキアのズデーデン地方から70万人のドイツ人が追い出された
1945/06/13[3]オーストラリア軍がブルネイの町を解放
1945/06/14[3]リッペントロップ(ドイツの前外相)がハンブルクの下宿屋で逮捕
1945/06/18[3]フィリピンのミンダナオ島で組織的抵抗が終わる
1945/06/18[3]アンリか軍の爆撃機隊は日本の都市攻撃を開始
1945/06/20[3]東京の御前会議で戦争を外交的に終結へ導くよう努力することを支持、ソ連のモロトフ外相に交渉を依頼する極秘電報の解読で無条件降伏の意思がないことが判明
1945/06/24[3]イギリス爆撃機は「クワイ川」にかかる橋を爆破
1945/06/26[3]国際連合は国連憲章を採択で幕を閉じた
1945/06/末[3]北ボルネオのサンダカンから2月にオーストラリア人捕虜2000の移動が始まり6月末に到着したのは僅か6名であった
1945/07/11[3]ルソン島のキアンガンで数千トンのナパーム弾が使われた
1945/07/14[3]戦艦マサチューセッツを含むアメリカ艦隊が釜石製鉄所に艦砲射撃
1945/07/15[3]ヨーロッパのナポリから太平洋向けにアメリカ軍の移動が始まった
1945/07/??[14]ポイント・ゼロにてプルトニウム爆弾が炸裂、フェルミはおよそ20kトンと見積もった
1945/07/16[3]ニューメキシコ州アラモ・ゴードにて原子爆弾実験
1945/07/17[3]ポツダム会談
1945/07/24[3]アメリカ爆撃機軍団、呉、名古屋、大阪、水戸を爆撃
1945/07/26[3]ポツダム宣言を発表
1945/07/26[3]アメリカ巡洋艦インディアナポリスが原爆をテニアンに運び込む
1945/07/29[3]アメリカ巡洋艦インディアナポリスが魚雷攻撃を浮け沈没、1196名中318名が救助された
1945/07/30[3]カール・スパッツ提督が原爆の投下地候補として捕虜収容所が無い広島を際優先に推薦
1945/07/30[17]アメリカ軍小型戦闘機が群馬県の西毛に来襲、市内の路面電車などを銃撃
1945/08/02[3]ポツダム会談が終わる
1945/08/05[3]夜にアメリカ軍爆撃機が飛び立つ、30が瀬戸内海への機雷投下、65機は佐賀、102機は前橋への焼夷弾攻撃、261機は西ノ宮ー御影地区、111機は宇部、66機は今治、そして1機は2機の支援機とともに広島へ
1945/08/05[17]夜にアメリカ軍爆撃機が前橋を爆撃、死者535、被害家屋1万
1945/08/06[3]「センターボード作戦」エノラゲイが広島へ原爆投下
1945/08/07[3]ソ連軍が日本に宣戦
1945/08/09[3]長崎にプルトニウム爆弾投下
1945/08/10[3]ポツダム宣言の受諾がスイスとスェーデンの大使に向けて発せられた
1945/08/10[3]トルーマンは原爆の投下中止を命令
1945/08/10[3]満州でソ連軍と日本軍が激戦、平陽鎮で日本兵850のうち650が戦死
1945/08/12[3]日本軍のソ連軍に対する歩兵特攻が始まる
1945/08/14[3]800機以上のアメリカ軍爆撃機が本州を爆撃
1945/08/14[17]アメリカ軍爆撃機が高崎、伊勢崎(焼失家屋1953)、を爆撃
1945/08/15[3]正午、NHKにより天皇の肉声で終戦の宣言が放送された
1945/08/15[3]●第二次世界大戦、太平洋戦争の終了
1945/08/19[3]ホーチミンが北部ベトナムで権力を握る
1945/08/28[3]厚木にチャールズ・テンチ大佐が到着
1945/08/30[3]厚木にマッカーサーが到着
1945/09/02[3]戦艦ミズーリの上で降伏調印式
1945/09/08[3]フランス軍がインドシナで「マスターダム作戦」を開始し、再植民地化に乗り出した
1945/09/18[3]マッカーサーは司令部を東京に移した
1945/09/25[3]マッカーサー司令部に天皇が訪問
1946/01/19[3]マッカーサーが極東国際軍事裁判所を開設
1946/02/23[3]フィリピンで山下泰文将軍がロズ・バニョスで絞首刑
1946/02/30[3]フィリピンで本間雅晴将軍がバターン死の行進の責任者として銃殺
1946/12/19[WEB] インドシナ戦争勃発 フランスに対する民族独立戦争
1947/10/22[WEB] 第1次カシミール紛争 インド・パキスタンの戦争 1949年まで
1948/5/15[WEB] 第1次中東戦争
1950/6/25[WEB] 朝鮮戦争
1950/6/28[WEB] ソウル陥落
1950/9/15[WEB] 朝鮮戦争 仁川上陸作戦
1950/10/1[WEB] 朝鮮戦争 韓国軍が北緯38度線を突破
1950/10/19[WEB] 朝鮮戦争 ピョンヤン陥落
1950/10/25[WEB] 朝鮮戦争 中国軍が参戦
1953/7/27[WEB] 朝鮮戦争 板門店で休戦協定に調印
アルジェリア戦争
1962/7/?[WEB] アルジェリア独立
1964/8/?[WEB] トンキン湾事件
ベトナム戦争のベトナム化
ベトナム戦争終結
1978/4/28[WEB] アフガニスタンでクーデター
1979/12/25[WEB] アフガニスタンにソ連軍が侵攻
1980/9/22[WEB] イラン・イラク戦争開始
1982/4/7[WEB] フォークランド紛争勃発
1982/6/14[WEB] フォークランド紛争、アルゼンチン軍が降伏して終了
1987/7/?[WEB] 国連安全保障理事会がイランとイラクに対して即時停戦を決議
1987/8/23[WEB] イラン・イラク戦争が停戦
1988/2/15[WEB] アフガニスタンからソ連軍が完全に撤退
イラクがクウェート侵略 (日時不明)
1991/1/17[WEB] 湾岸戦争開始
1991/3/3[WEB] イラクが停戦協定を受け入れ
1991/4/6[WEB] 湾岸戦争の終戦
1991/6/25[WEB] スロベニア独立戦争勃発
1991/7/?[WEB] ECの調停でスロベニア停戦
1991/9/19[WEB] クロアチア独立戦争勃発
2001/9/11[WEB] アメリカに対する同時多発テロ
2001/10/7[WEB] アフガニスタン空爆開始
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