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ひとつ前へ WWWルートへ 記述責任者:mad@mail.wind.ne.jp 工学系大学の将来と技術2004/02/21 玉置晴朗 |
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massachusetts institute of technology
http://libraries.mit.edu/archives/mithistory/seal/index.html より「以下は意訳」
左にはカナトコと労働者、右に本を持った学者。これはMITの協力者および工科大学の計画を表現しています。
ラテン語 (Mens et Manus)は "心と手"。台座の上にある書籍(科学および芸術)は、この土台を通じて知識および実用科学の間の協力を意味します。
さて、今の工学系大学に技術はあるのか? と聞けば、研究は存在するが技術は持っていないと言わざるを得ない。マサチューセッツ工科大学のWEBから引用してみたが、心と手の調和がうたわれている。心は精神であり、ここではおそらく科学、芸術などで、手は技術や労働のことだろう。
小学生から中学生にかけては助走期間であり、先人は世界の広さと生きていく基本知識及び技術を伝える。大学は最後の仕上げとして、科学と技術をいったいのものとして提供し、学生が社会に出て自力で深化させるすべを与える。
大学は学問領域だけではなく社会的な分野としてわかれており、分野に適合しない者に存学する意義は無い。これをあいまいにすると小学校になってしまい、大学教育の意義を失う。工科大学は専門教育であって一般教養科目があるとしても専門教育の補強として存在する意義を持つ。専門研究職が運営する大学ははっきりとこれを意識しなければいけない。しかし、理学部で言語学、英文学で数学の講義が無意味だと言うわけではない。逆に工科大学で必須のものは修辞、自己表現などの文書技術だとも言える。
教授による科学、助教授や助手による支援、技官による技術。これらがいったいとして提供され、現在でも国立大学の一部ではこの形で運営されている。理学部系では工作室や機械室を運営していることが多い。私は群馬大学の教育学部の物理であったが、写真暗室、電子測定器はいつでも自由に使え、複雑な工作は技術過程にある工作機械を技官に使わせてもらえた。学生が望むならそれなりの範囲で支援してもらえたと感謝している。
旧帝国大学系の理学部では実験のための測定装置の一部は教授自身が作らざるをえなかったと聞いたし、1〜2世代前に退官した教授たちはその技術を身につけることでしか本格的な研究ができなかったようだ。学生は、研究と技術が一体になって進むありようを見ていたことになる。
学生に技術分野の講義をすることはできるが、おそらくまったく効果は無いだろう。
- 興味も必要性も感じない相手に技術を教えることはできない
- 興味を持たせるのが教授する側の役目だと言う説もあるが、小中学校までの話だ
- 残念ながら興味を持たない学生を排除するしか技術を伝授する道は無い
- 技術は集約された知識ではない
- 科学と技術の知識体系はまったく別物であり、技術はこまごました知識と体験の集約だ
- したがって修得に多くの雑学と体験を要する
- たとえば、汗をかかず、危険を感じずに山に登れる方法を100種ほど提供しても登山の楽しみは伝わらないし技術も身につかない。技術とはそういうものだ。
- 科学と技術のバランス
- 科学が普遍性を頂点とするなら、技術は動くことを評価の頂点とする
- 知識構造→科学は頂点から下を見る、技術は既存技術の裾野から頂点(動く)を見上げる
(これは比喩です)- 工学系大学で技術に興味を持たない者のために努力するよりも、興味を持つ学生にその資質を伸ばす修練の場を提供することこそが大学の責任だろう
これをまとめると、大学内で10坪ぐらいの部屋を借りて
なんてのはどうかなあ・・・・・それほど経費がかかるわけでもない。
当社が人件費抜き+経理公開+資材提供で運営してもいい、GIDプロジェクトに準じるだろう
群馬県のアナログなんたらと言う試みに投げてみるか?
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