2004/10/24 Fujinaga
2004年4月11日 21時48分、F医師の腕時計により、死亡時刻が宣告された。
前日には、多くの友人に会い、電話で話をした。10日には、声に張りもあり、元気だった。見舞い客も電話相手も、厳しい状況とはわかっても死が差し迫っているとは感じなかった。
しかし、ひどく暑がり、窓を開けて風を入れたり、大きな団扇で扇いだりした。咳き込むと血の混じったたんを吐いた。冷たいお茶やシャーベット、桃の瓶詰めを小さく切って食べる。酸素マスクを外したままボーっとすることがある。そんなときは周りが慌ててマスクをさせると我に返るが、だんだん、ぼんやりする頻度が増えてくる。
また、吐いた。パジャマが汚れたので、私のシャツを着せた。
ナースが熱いお絞りを持ってきてくれた。渡されたタオルで自分のお腹を拭きはじめたと思ったら、暴れだし、マスクを取ってしまった。ナースがマスクを顔に当てようとするがうまくいかない。最期に一滴の涙を流して動かなくなった。
「じゅん、頑張る」
最後の入院のときの言葉が私の耳に残って消えない。そのときには、後戻りできないところに来ているのを私は医者から聞かされている。
看護婦長が子供たちを泊まらせても良いと言ってくれた。だが、おとなしくしないので一晩で追い返された。
本人は、死ぬ気はないので、医者の話を聞いてもまだ治療ができるようになって、退院の日を迎えられると思っているから子供たちともお別れをしなかった。
病室に子供たちを呼び、友人を呼んだが、順子は「子供たちや友達と会って元気を出すようにとの配慮」と考えていた。
病棟主治医は涙を浮かべて順子に接した。
「Iさん、泣いてんのよ。医者のくせに」
と言った。私も涙を止められなかった。
医師に病状を話すようにと言ったのだが、結局、本当のところは伝えられなかった。
医者が順子に聞いた。
「人工呼吸器を使いますか」
「考えていなかった」
順子は答えたそうだ。
私は、不要と答えた。人工呼吸器をつけて、治療ができるようになって、外せるならもちろん人工呼吸器をつける意義があるけれども、苦しみを伸ばす延命を望まなかったのだ。もちろん有効性にも疑問があった。
順子にとってはどうだったのだろう?
9日には、MTXベースの抗がん剤治療を望んだが、だめだった。
血小板が1日で半分になった。ハイパーサーミアの副作用による腫瘍融解症候群(Tumor Lysis Syndorome)の可能性が高い。
2月の胃カメラでは、粘膜面に明らかな異常を認めず、伸展良好だった。しかし、病理解剖の結果は、胃中部から下部の大湾側前襞の粘膜下に中分化腺癌、粘液癌が増殖しており、リンパ管侵襲が強かった。
肺は高度な癌性リンパ管症と、細い肺動脈にフィブリンの混ざった腫瘍の塊による塞栓と内膜繊維性肥厚、血栓再疎通があった。
DIC(播種性血管内凝固症候群)が認められた。
腰痛の原因として、腰椎、胸椎に骨形成性転移があった。
5月29日に満中陰(四十九日)の法要を行い残された者にとっての一区切がつきました。
もっとはやくそれを知っていたら違う判断をしたのに、と思うことがたくさんあります。がんとの闘いは医療との闘いでもあり、しっかり調べて急ぐことが大切です。患者と家族が学ばなければならないことが多く、権威やマスコミ報道を鵜呑みにしては闘いきれません。
順子が死んで5ヶ月が過ぎた9月22日、大学医学部主催の解剖諸霊位供養法会に参列してきました。故人の霊があるわけではなく、冥福を祈るのも「即得往生」の教えから考えると失礼なことであり、不遜なことと言えます。しかしながら、医学発展に寄与し、これからの人々の幸福のために献体した人たちを敬い、感謝する意味で供養をしたいと思いました。