赤羽明、高橋 浩、玉置豊美、森下貴司、所澤 潤

群馬大学所蔵明治期教科書の調査について―物理関係書を中心に―

日本科学史学会 第49回年会、研究発表講演要旨集 p.25、金沢大学角間キャンパス、5月(2002)

発表原稿案

この原稿は、高橋 浩が作製した発表原稿でありますが、登壇者・赤羽明が行った実際の発表は、この原稿に適宜変更を加えています。

1.序論

 我々は、昨年(2001年)6月、群馬大学附属図書館本館に、大量の明治期の書籍が目録化されないままで保存してあることを知りました。以来、それらの物理学、理科関係の本に関する調査と目録の作成を行ってきました。

 このコレクションの中には、明治18年に出版され、後の時代の人達から高い評価を得た後藤牧太らの『小学校生徒用物理書』も含まれます。後藤以外の3名の著者は、当時、群馬大学の前身の群馬県師範学校教諭でした。しかし、この理由だけで、この本が群馬大の図書館にあったのではなく、詳細は後の述べますが、当時、この本が「理科」時間の指定教科書として小学校で使用されていたらこそ残っていたと、我々は考えています。

今回の発表では、@群馬大学所蔵の明治期の物理、理科書の目録の概要を発表するとともに、A群馬県おける科学教育、理科教育の歴史についても述べたいと思います。

 群馬大学所蔵の資料には、単に当時の図書館が購入した図書だけでなく、実際に使用された教科書を、後の時代に収集したものが含まれています。そのために、当時の教育関係の行政文書と照らし合わせることで、明治期の群馬県における科学・理科教育事情についてある程度伺い知ることが出来ます。

 我々の調査で明らかになった重要な点の1つは、『小学校生徒用物理書』の教科書としての使用が、理科教育の価値観に関わる問題であったということです。決して、それは地方いう地理的な問題から生じた時間的スケールのずれに還元されるものではありませんでした。
 京都大学などの所蔵史料から解明される明治期の科学教育の実態や明治中期における「科学教育から理科教育への変換」の問題が幾度となく、この学会で取り上げられていますが、この点とも密接に絡んでいます。


2.群馬大資料の内訳

 ここでは、群馬大学附属図書館にあった明治期刊行の図書資料を、以下、群馬大資料と呼ぶことにします。我々が目録を作成して確認した教科書類は、物理関係書は合計118冊で、洋書7冊を含みます。理科関係書は66冊でした。同一の書物がありますので、種類で言うと物理関係は57種類で、理科関係書では 12種類です。ここでは、版の違いは、無視して同一の本と判断して数えました。これは予稿を提出した(2002年)330日現在での数字ですが、その後、さらに十数冊の理科の教科書、理科帳の存在を確認しました。

3.群馬大資料の具体例

 次に、群馬大資料の中に見出された物理書、理科教科書のいくつかを簡単に紹介しておきます。

 福沢諭吉の『訓蒙 究理図解』の巻の二がありました。明治元年に出版され、究理ブームを引き起こしたことでも知られる図書です。

 片山淳吉の『物理階梯』は、2種類の版がありました。「物理」とい言葉を普及させたと言われ、10万冊以上出版された当時の一大ベストセラーです。

 飯盛挺造の『物理学』、宇田川準一の『物理全志』など、明治前半期における代表的な物理専門書も見いだされました。
 洋書の中には、『物理階梯』『物理全誌』の元本である Quackenbos Natural Philosophy Stewart Lessons in Elementary Physicsがありました。
 また、フランスのGanotの物理書の英訳書も2冊ありました。Peckによる英訳 Natural Philosophyと、Atkinsonによる英訳 Elementary Treatise on Physicsです。いずれも当時の代表的な物理書です。

 理科関係では、小学理科新書や高等小学理科書などがありました。ともに明治20年代後半に広く普及した教科書です。

 さて、特に我々が注目したいのは、後藤牧太らの『小学校生徒用物理書』です。これは、翻訳ものでなくオリジナルに書かれた最初期の物理教科書であるいるということ、さらに、内容のほとんど総てを実験で持って説明する方式や、当時の通常の物理書が物性論から始めるのに、この本は力学から入るなど画期的な教科書でありました。後の時代の人も、高く評価しています。

 しかし、明治18年に出版され、翌年の小学校令で物理等の個別科目が廃止され、理科という科目が設けられたために、使用実績に関しては、不明な部分がありました。

後藤以外の3名の著者、篠田、瀧澤、柳生が出版当時、群馬県師範学校の教諭であったわけですから群馬大資料のこの教科書が含まれることは、極めて自然なことなのかもしれません。

 今回の調査では、同書の上中下の3冊が揃っているものが2つと中巻1冊つかりました。注目すべきは、奥付に「検定済」と印刷されたものと印刷されていないものの2種類が見つかったこと、および持ち主であった学童の名前「群馬縣南勢多郡木瀬村大字駒形 直井愛次郎」と書かれたものがあったことです。この2点は、同書が県下の小学校で実際に使用されていたを強く示唆しています。

4.群馬県立女子師範学校 地理学教室 郷土研究室

 群馬大資料の最大の特徴は、最初に述べたように、当時、実際に使用された教科書を、後の時代に収集したものを含むということです。
 ここに示すとおり、それらの教科書には、群馬女子師範・地理学教室・郷土研究室(郷土教育)という印が押してあり、また、表紙に白いシールが貼られおり、そこには個人名が書かれています。

 白いシールに書かれた個人名を群馬大教育学部の同窓会名簿で探してみたところ、表に示すように、多くの人が、昭和6年から昭和11年にかけて群馬女子師範の卒業した人であることが確認できました。そこで、我々は、その時期に、使用済み教科書は収集されたのだと考えています。つまり、群馬女子師範の郷土研究室が、郷土の教育の実態を研究するために、在校生徒を動員して古い教科書を収集したものと想像されます。当時は文部省が郷土教育を強力に推進した時期にあたります。

 我々の同僚の関戸明子氏の研究によれば、群馬女子師範は、大正期から郷土教育に力を入れはじめ、全国的にも早い時期に郷土室を整備しており、昭和7年には女子師範創立30周年を記念して、郷土研究資料展覧会を開いています。 そうした取組みが使用済みの教科書の収集に発展したものと思われます。


5.当時、どのような教科書が指定されていたか?

 群馬大資料と、群馬県の教科書の使用状況を対比したところ、明治19年の小学校令公布以後、即ち物理、化学、博物、生理が廃止されて新しく「理科」という科目が導入された時に、興味深い判断が為されていることがわかりました。すなわち、理科という新しく統合された科目ではなく、従来の科目、しかも主として物理を教えていたのです。

 従来から、教育史の分野では、この転換は、目に見えない科学的な法則に重きをおいた科学教育から目に見える自然現象を中心とした理科教育への転換だと理解され、多くの場合、科学的な発想を弱めるものとして理解されてきました。

 群馬県での展開をたどってみましょう。 明治19年の小学校令の公布以後、群馬県の教科書の指定は、明治19年、25年、27年に変化しています。

明治19年に群馬県の布達として出された「小学校教則」には、理科の教科書として、次のものを指定しています。

後藤牧太他3名『小学校生徒用物理書』上中下三冊

(代替本として、志賀泰山 小学物理書 上中下三冊)

理科の教科書として「物理」のみが指定されています。この事実、つまり、明治19年の群馬県小学校教則で理科の教科書として、「小学校生徒用物理書」が指定されている事実を、最初に指摘したのは、我々の知る限り、佐藤道幸氏の修士論文(上越教育大:1989)が最初のものです。

 上の2つとも群馬大資料に含まれていますが、生徒が使用した跡が残っているものは、『小学校生徒用物理書』の方だけです。同書の使用実績に関しては、これまで殆ど実態が知られていませんが、群馬県では確かに教科書として使用されてきたのは間違いないことです。

 明治256月に小学校教則が群馬県令で制定され、10月1日より実施されます。 この時の教則では、理科の指定教科書はありません。 だた、「所定ノ参考書」に拠ることとされていますが、その参考書のことだと思われる「高等小学校教師用教科書表」には、


後藤牧太『小学校生徒用物理書』上中下 三冊
近藤瓶城『初学人身究理』上下 二冊、
市川盛三郎『小学化学書』巻一〜巻三 三冊 

の3種類が載っています。ただし、いずれも注がついていて、仮定の図書であると記載されています。

そして、明治27630日(群馬県県令第36号 小学校教科用図書)に制定された 「高等小学校用図書」の理科の欄からは、物理、化学等の図書に代って理科書が掲載されています。 すなわち、次の2種です。

教育学館『高等小学理科書』生徒用 全四冊

学海指針社『小学理科新書』 全四冊(生徒用/教師用、甲種/乙種 各4冊)

 小学理科書』の乙種は生徒用、教師用とも残っていませんでしたが、その他はいずれも群馬大資料にそろっています。生徒用教科書に関しては、生徒の使用済みのものが群馬大資料には含まれています。

6.小学校生徒用物理書の使用実態

 従来、明治18年に発行された『小学校生徒用物理書』は、明治19年の新科目「理科」の導入のため、実際に現場で使用されたかどうかが確認されず、恐らくは高等女学校用の教科書として転用されたとみられてきました。しかし、以上に述べてきたように、群馬大資料から学校現場での『小学校生徒用物理書』の使用の痕跡が確認されました。またそれも明治26年ごろまで続いたのではないか、と思われます。すなわちこの時期には「理科」の時間に物理を中心に教えたのではないかと推測されます。

7.群馬師範学校における物理重視の意向

 群馬県におけるこのような理科教育の展開は、他県とは異なったものであったように思われます。我々はまだこの点に関して全国的な調査を行っていませんが、少なくとも、隣の長野県とは異なっていることを確認しました。『長野県教育史』第4巻によれば、長野県は明治213月に「小学教科用図書」を定め、4月から理科の教科書として高島勝次郎編『新撰理科書』を使用させています。ともかくも、長野県は明治21年には、形の上では理科に移行したと考えられます。(長野県教育史 第4巻pp.786-798

 群馬県が独自の動きをしている理由として、我々は、群馬師範の意向が強く働いていたのではないかと推測しています。 それは、当時、群馬師範がかなり物理を重視していたと推測される事実があるからです。それは入試科目です。群馬県立文書館所蔵の文書等から調べた結果、明治19年から36年までの期間の、群馬師範の入試科目には必ず物理が課されています。

 物理を課す理由については、明治26年7月5日付の知事から文部省普通学務局長心得に宛てた文書の中で説明されています。


一、今ノ學生ニ理化思想ノ乏シキハ一般ノ風習ナリ依テ理化思想ヲ長セシメ実業科施設ノ伏線トモナサシメンガ為メ特ニ物理ノ一科ヲ試験科目ニ加ヘタリ然ルニ単ニ物理ニ限リタル理由ハ粗雑ニ種々ノ学科ニ渉ラシメンヨリハ物理ノ一科ニ止ムル方學ブ者ニ取リテモ便益ニンテ且ツ理化思想ノ厚薄ヲ見ンガ為ンニハ物理科ヲ以テ尤モ適当ト信シタルカ故特ニ入学試験ノ科目ト定メタリ

8.まとめと次への課題

 今回、調査で分かった事実を、まとめておきたいと思います。

        後藤牧太らの『小学校生徒用物理書』は、群馬県では実際に小学校で使用されていた。

        生徒用・教師用として「小学校生徒用物理書」の使用期間は、明治19年から明治 26年頃までの約7年間である。

        明治19年の小学校令により理科という科目が設けられるが、群馬県では、この「理科」と名の付いた(小学校教則大綱に準じた)教科書を使用して「理科」の教育が本格的に開始されるのは、明治26年頃である。

そして、以上のような事実を確認する過程で、この背景には、恐らくは師範学校における教科に対する考えがあったのだろうということも見えてきました。即ち、幅広く多くの科目を学ぶより、物理のみを学ぶ方が自然科学的な考えを深く理解できる、という考え方が根底にあったのではないかと思われます。
 理科の誕生には、教育観の変化があるということが従来から指摘されていますが、理科という教科に見られる幅広さ、についての批判があったことを発見できたことは、今回の調査による新しい知見であると言えます。

また、今回十分に追跡できなかったのは、県内各小学校では「理科」という新教科を本当に物理のみで行っていたのか、という実態の確認です。師範学校における科学思想が、当時の小学校の現場にどのように下りていたかは、今後追究すべき大きな課題です。

無断転記厳禁



戻る